[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.099 エロチシズム

 

 私はよくエロチシズムについて考えているんですが、皆さんは”エロ”って一体なんだと思いますか?。

 

 [性的興奮?、エクスタシー?、愛故の根源的欲求?]

 

 あくまで”エロ”は概念であるから、そのどれもが正しくて、本人が身体や心で感じたことが正解となる。露になった乳房にエロチシズムを感じる人もいれば、溶けかけのだらしないアイスクリームにエロチシズムを感じる人もいる。彫刻のように割れた腹筋が刺さる人もいれば、冷凍庫からとりだしたばかりの板チョコに溢れ出んばかりのエロスを感じる人だっているかもしれない。かもしれないというよりも、きっといる。だって世界には数えきれないほどのエロスが散りばめられているから。

 

 私にとってのエロチシズムとは、膨大な原動力だと考えています。

 

 例えば、魅力的な異性がいて、相手方と交わりたいと思ったとする。そのお相手は一人でも、複数でもよい。その時点で多少なりともエロチシズムが発生していて、その欲求は猛スピードで成長していく。ただ、現在の自分では振り向いてもらえそうにない。そうなった時にはどうするか?。

 

 一つの選択肢として、行動をする。体型に自身がなければトレーニングをしたり食生活を改善する、髪型や服装はプロにお任せすればそれなりに良い仕上がりになるだろうし、顔はメイクを勉強したり、必要な場合は整形をすることもいいと思う。内面に関しては本を読み、記載内容を実生活に落とし込めば、現状を幾らか改善することが出来る。経済面で不具合があるのなら、単純にお金を稼げばいい。

 

 そうやって、足りない部分を補填する、もしくは秀でている部分をより強固にしていく。その原動力となっているのが”エロチシズム”なのだと思う。

 

 もしかすると、そこまでしても相手には見向きもしてもらえないかもしれない。所詮人間は動物で、ただの獣だ。ラブロマンスみたいなものは確率論のような部分があるから、駄目だった時には潔く諦めてしまって、足早に次の現場へ向かうぐらいが丁度いい。それでも、一日ぐらいは大泣きしてもいい。

 

 もう一つの選択肢として、エロチシズムが発生した時点で、その原動力を燃料として”一人きり”のエクスタシーを迎えることだって出来る。相手のあんな姿やこんな姿を想像しながら、絶頂する。それはそれで本人が満足していれば有りなのだと思う。けれども、客観的にその姿を見た時にあまりにも悲し過ぎないだろうかと、要らぬお節介を焼いてしまう。

 

 どちらも原動力は”エロ”なのだけど、選択が異なるだけで結果の違いは一目瞭然でしょう。前者は結ばれれば幸、結ばれなかったとしても、お金と時間を課金して身に付けた魅力はその後も残存する。後者は絶頂を迎え終了、自分自身は何一つ変わらないまま幕を閉じる。

 

 これは巷に溢れる間抜けな努力論みたいなものではなくて、ただ純粋に勿体無いなと感じてしまうだけ。そんなに簡単に”エロチシズム”を発散してしまってもいいのでしょうか?。膨大なエネルギー源を垂れ流してしまっていいのでしょうか?。男女関係なく、現代を生きる人間はエロスを軽視し過ぎている気がするんです。

 

 エロスを体内に温存する、循環させる、そして最後に昇華させる。昇華方法は相手との交わりでもいいし、創作活動でもいい。仕事に勤しむことでも、トレーニングに励むことでも、料理を作ることでもいい。何にしても、エネルギーを無為に発散することはとても勿体無いことのように感じる。一時の快楽と引き換えに、自分の可能性を放棄してしまってもいいのですか?

 

 ちょっと怪しい感じになってしまいましたが、これはあくまで自分の感覚的なお話しであって、何の根拠もありません。かく言うわたしも、過去にエロチシズムを消費していた人間の一人です。しかし、些細なことからエネルギーを温存するようになって、人生が豊かになった。とにかく行動量が増えた。これを論理ではすべて説明することはできなくて、体感することが何よりも大事なのだと思う。

 

 

 世の中には色とりどりのエロスが溢れている。それをどのように解釈して、どのように味わうのかは当人次第。だからこそ私たちは”対象”に引き込まれる、もっと深くまで潜りたくなる。そんな心持ちを、いつまでも忘れずにいたいものです。

 

 

 やっぱり、エロチシズムって素敵ですよね。