[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.063 虚を突かれたウサギ

 

 「今日を生きる」

 って、すごく難しいなと最近感じています。

 

 今日を生きるとは、即ち今この瞬間を生き抜くこと。それが充足でも充実でも構わない、自分の為に自分で行動するということなのではないかと考えている。

 例えばそれが仕事であったり、料理であったり、運動であったり、読書や楽器を演奏することであるかもしれない。既に習慣化された入浴や歯磨き、身嗜みを整えることも今日を生きた瞬間を切り取った一部分なのでしょう。

 

 はたまた、”生きること”とは対照的に「今日少しだけ死んだこと」もあるだろう。日常に介在する"死"とは何か、それは、他者の何気ない一言で心を抉られたり、自分で自分を傷つけてしまったり、嫌だと思っていることに取り組んでいる時間だったりする。そういったことがずっと続いてしまうと、心から潤いが逃げ溢れてしまう。心の声はとても素直だ。眼前の事象に対して、これまでの人生経験から瞬時に判別が下されたものが声として形成される。それはいわばオートプログラミングみたいなもので、この瞬間的な自動判別が"直感"と呼ばれている。

 

 「直感を信じていきなさい。自分の直感がわからなくなってしまった時は心が疲れている証拠です。その時はゆっくりと休みなさい。」

 

 

 今日を生きる為には、なるべく今日を死なないことが大切なんだと思っている。死と生は対極的な存在だ。けれども、同時に紙一重でもあって、誤った生き方が死を招くこともあるだろうし、間接的な死がトリガーとなり膨大な生命力を体得することだってある。それが必然的なのか、偶発的なのか、私たちには知る由もないのだけれど、兎に角どれだけ順調に生を歩んでいたとしても、一分後にはそれらの活気が死へと転換しているかもしれない。翌日には画面越しに見ていた筈の悲劇が自身に降りかかり、一年後にはすっかり忘れ去られている私たち。あり得る、充分にあり得ることなんです。

 

 だからこそ、今日を生きることよりも、”死なないこと”にフォーカスを当てる。嫌なことはなるべくしないように、自分が不快だと思う環境からは物理的距離を取る。量子力学では、自分の視界に入っていない全ての物質はこの世に存在していないことになるらしい。嫌だと思う出来事/物事/人物から目を逸らす、そしてやりたくないことはしない、そうすることによって心が死から遠ざかる。現実的に難しい部分も多々あるだろうけれど、可能な範囲から試してみる。慣れてきたら、対象範囲を広げる方法を思考すればいい。生活をプラスの方向へ進めるよりも、なるべくマイナス面に向かわないようにする。”生”を育むことよりも、”生”に負担をかけない生き方が、結果的により多感な”生命”を作り上げるんじゃないでしょうか。

 

 生きることに対して必死になると、どうしても心が疲弊してしまう。何せ”必死”という言葉の中には死が包含されているんだから、苦しくなってしまうのは当たり前だ。本来ならば「生きて何かを達成すること」が目的となるハズなのに、生きることに尽力すると、生きることそれ自体が目的になってしまう。当たり前だけど、達成する「何か」は人によって違ってくる。[仕事で成功したい]とかそんな堅苦しいものでなくても、[たくさん本を読みたい] [たくさん美味しい物を食べたい] [異性からモテるようになりたい]みたいな目標が、これからを生きる理由として必要十分に機能していくだろう。目標があるから生きる、だからこそ死なないようにする。それぐらいシンプルに考えても、悪くないのではないかと最近のわたしは考えています。

 

 

 目標に向かって歩くことを”生きる”というならば、

 私は今日を生きることが出来ているのだろうか。