[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0385 これからのこと

 

 拙い人生でした、その中でいまが一番深い部分まで落ち込んでいる。失ってはじめて気がつくこと、たくさんあったけれど、悔いても後戻りできないことだけが明確で、本当に本当に心を丸めてゴミ箱へぽいっと放り投げたくなる。どうしてこんなにも胸が痛むんだろう、言葉にすればするほど、痛い。でも、言葉にしないまま堪えきることなんてできる訳がなくて、だってそうでしょう? わたしたちは言葉を介して世界を認識しているのだから。いまこうやって文章を書いていること、それ自体が必然なのであった。

 

 これはもうどうやっても這い上がること難しいんじゃないか、と思っている次第なのだけど、不思議と良い意味で俯瞰的であるというか、「まぁ、いまはしんどいと思うけど、ここからの人生きっとよくなっていくはずやで」と何ともありがちな慰めの言葉を投げかけている、いわゆる”直感”というやつがいまして、それに対して「もう動きたくないです、誰とも会いたくないです、いっそのこといなくなりたい」と何度も何度も同じこと、ネガティブ上級者であるのがわたし自身。「無理」「大丈夫」「無理」「無理」「大丈夫」を頭の中で繰り返しているといよいよ精神が狂ってしまう、動悸がずっと鳴り止まなくてジッとしていることが恐ろしい。ろくに眠ることもできず、まともに起きていることも叶わず、陰鬱とした家の中は居心地が悪く、浮かんでくるのは楽しかった思ひでばかり、いつまで過去に浸ってるのよ、自分自身にうんざりしてもうええわ思い立ち上着を羽織って外に出た。

 

 午前、曇り空、ひんやりとした空気が気持ちよかった。世界っていうのはこんなにも気持ちいいものなんだな。いくつになっても新たな発見、こういう小さな発見の積み重ねで、人生に少しずつ色彩が足される。なんてね、そんな風に考えること、少なくとも現在の頭では到底難しく、ただ、わたしは歩く、歩くことだけに集中するのだ。歩け、歩いてゆけ、どこまでも。実際は家の周辺をぽつぽつ歩き回っただけ、それだけでも心がほんの僅か呼吸を思い出す。普段は立ち寄ることのない通りがかりのコンビニで、普段は買う事のないホットコーヒーを買ってみる。変わりたいのだろう、そんな自分が無意識を加速させている。同じことを毎日繰り返すことも大事だけど、人間が変わるためには、日々違うことに挑戦することも大事なんだよな。だから自分はいつまでたっても変わらないままで、世界はものすごい速度で過去となり、置いてけぼりを感じている。「なにを被害者ぶってるの」、そうだよなわたしの直感が正論を言う。みんな、みんな、変わる努力をしている。わたしは変わらないままの選択を、これまで自分の手でつかみ続けていたんだね。だからずっと精神病で、家族コンプレックスで、他人のことを信じられないままだ。でもさ、もうこういうの終わりにしよう。こんな自分、これまでの自分に、今日で終止符を打ちたいのです。

 

 変わることはとっても大変。行動するのはいつだって恐怖。変わらないままの自分を選択して「変われない」と思い込んでいるだけなのに、その自分をありのままに認められないから、好きになれないから、いなくなることを願ってしまうのだろうか。死を、生きることをやめてしまうのだろうか。現在のわたしには、本当になんにも残っておらんのです。失うものがなんにもないんです。その事実が恐ろしくて、またまた現実から逃げたくなってしまうけれど、とっておきはとっておきだからこそとっておきな訳で、いざそれを実行したときには、本当の意味で後戻りできなくなってしまう。好きな人にも、好きだった人にも、大切な人にも、誰にも会えなくなってしまう。果たしてそれでよいのだろうか、本当に自分は、そうなることを望んでいるのだろうか。

 

「自殺するぐらいなら、その前に山に籠もればいいと思う」

 

 大切な人が言っていた。「あなたの自殺にはたえられない」と言ってくれた。死を選ぶぐらいなら、いっそのこと山に籠って自分を見つめ直せばいい。この言葉には本質が多分に含まれている。とても考えさせられる一言で、またねと見送ったあともずっと脳裏に焼き付いていた。失うものがなんにもないなら、それぐらい大胆なことができるんじゃないか。山籠もりまではいかなくても、これからの自分が「変わる」選択、いまからでも遅くはないんじゃないだろうか。少なくともこの文章を書いているいまの自分は、そのように思っている。これまで自分で自分を縛り続けて雁字搦め、自信は何処へ、失ってはじめて自分の気持ちの深さを知る。もう、そんなのは嫌だ、いやなのだ。失うことが、独りになることが怖いのだ。置いてけぼりと同様に、失うこともまた錯覚だ。そもそも存在を手に入れることなんて出来ないのだから。

 

 大切なものは、ちゃんと掴んでいないとどこかへ消えてしまう。掴むためには、相応のちからが必要になる。ちからとは、財力であったり、優しさであったり、時間であったり、様々な要素に分類されて、そのどれかが大きく欠けると、一緒にいることが難しくなる。そんな当たり前なこと、見えなくて見ようともしなくて、生きることが辛い苦しいだなんて現実逃避。ちゃんと見ないと、向き合わないと、この先もずっと同じことの繰り返し。ちからが無いことを言い訳にして、逃げつづけた結末が今日この瞬間なのである。だからこそ、ここから変われる、変わっていける。昨日までの愚かな自分に、手を振りまたねさようなら。