[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0169 鳴き声の在り処

 

 初めて他人が涙する姿を見たその時から、人の泣き顔が好きになった。

 

 笑顔よりも泣き顔に惹かれてしまうのは何故だろう。常日頃拝める表情ではないという希少性、相手は幾粒もの涙を流しているにも関わらずこちらは一滴たりとも水分が流れていないその落差からか。いくら考えてもしっくり当てはまらなかったのだけど、今日ふとした瞬間に答が出た。

 

 人間が泣いている姿からは、感情の爆発を感じるからだ。

 

 これまでに敷き詰められ積み重ね上げられたあらゆる類の感情が、沸点に達した瞬間に爆発を起こす。その事象に巨大な美しさを感じる。これはサディズム等とは関係が希薄であることが明らかだ。泣いている相手の苦しむ姿に快楽を覚える訳ではなく、あくまで泣いている姿そのものに惹きこまれる。泣き顔を見れた時には嬉しくなるし、時には興奮する。異性の泣き顔は楕円を描く花瓶のように美しく、同性の泣き顔からは無いはずの母性が姿を現す。

 

 あぁ、愛おしい。もっと私の前で泣いてほしい。その泣き顔をずっとずっと愛でていたいのに、人間はひとしきり涙を流し切ると泣くことを止めてしまう。よかったね、という気持ちと残念な気持ちが入り乱れ、言葉にし難い罪悪感が胸の中を渦巻いている。

 

 嬉しさが急加速して泣く場合があることも人間の面白い一部分である。悔しくて泣いたり、虚しくて泣いたりもする。色々な涙のバリエーションがあるにも関わらず、流れる液体はどれも同一の水分という点が感慨深い。人前で泣くことも、こっそり一人の部屋で泣くことも、どちらにも趣がある。涙一粒に対する表現は無限大で、だからこそ自分の眼球にその姿を納めたい。

 

 泣くことができる人が羨ましく思う瞬間もある。自分はどれだけ苦しい状況だったとしても、泣く事が出来ない。特に自制をかけている訳でもなく、泣いてしまって煩雑な感情共を表出させてしまいたいのに、どうしても涙が出なくて、そのことが何よりも悲しいと更に落ち込む。きっとどこかで圧倒的に冷静な自分自身が存在していて、彼が私の涙を塞き止めているのだろう。自分が出来ないから他人の泣き顔に魅力を感じるのか、他人の泣き顔が素敵だから自分も泣きたい泣いてみたいと思うのか。そんなことはどうだっていいけれど、泣いているあなたは美しいよ。

 

 子供はよく泣くし、その分よく笑う。「感情の怪獣だなぁ」なんて思う時が多々あって、だからこそ私は子供と遊ぶことが好きなのかもしれない。素敵だと感じる。その受け取った魅力に感化されて、わたしも爆発してしまえたらいいのだけれどね。

 

 

 思い返せば、泣けないといいながらも成人してから一度だけ大泣きしたことがあったっけ。大好きな人のことを大好きなままで大好きな人に振られた早朝だった。大好きな人の胸に縋り付きながら泣いた。その柔らかさと温もりに顔中の皮膚が溶けそうになるのを感じながら、相手のパジャマが透けるほどに号泣した。あぁ、わたしって泣けるんだ。嗚咽ってこんな感じで自然と漏れてくるんだ。なんてことを思いながらも、我に返りまた絶望した。

 

 

 もう一度、あれぐらい泣く事が出来ればいいのにな。

 泣くときは私の前で、いつでも待ってるよ。