[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0120 眼差し

 

 たくさんの人に愛されるより、たった一人から愛されたい。たくさんの薄っぺらいコピー用紙みたいなペラペラの愛情よりも、一つの緻密で重厚な愛が欲しい。そう思ってしまうのは我儘でしょうか。そもそも、愛を受け取る前提であることが既に傲慢で、それでいても尚、愛情を求めてしまう自分がいて。自分の中にある空白の部分、欠けた部分を肯定してもらいたくて、今日もこうやって言葉を吐いているのだろう。四捨五入すれば通俗的な承認欲求なのかな、それってちょっぴり悲しいね。

 

 

 自分自身でも、自分のことを万人受けするタイプではないと思っている。八方美人に心を乗っ取られていた時は「誰とでも仲良くなれるね」なんてよく言われたものだけど、今となっては、それって”誰とも仲を深めることが出来ない”ってことだったんだと思う。とにかく浅かったし、お酒があったからこそ何とかなっていたような関係性で。そういうのって、いくら身体的距離が限界値まで近づいたとしても、虚しいよな。

 だから、ある日を境に八方美人を殺害した。”全面醜悪”、ぐらいのスタンスで人と接するようになった。もう、天上天下唯我独尊でいいやと開き直った。勿論、そうすることによって離れていく人はたくさんいたし、新しい人間関係を構築することも少なくなった。それでも不思議なことに、そのスタンスを気に入ってくれる人もいて、関係性が深まった方たちもいた。結局、どれだけ残念な人間であっても、多少なりとも愛を感じることが出来るんだな、という事実を思い知った。

 

 

 「100人のファンがいるよりも、1人の変態に見守ってもらいたい。」

 

 語弊があるかもしれないが、ここでいう”変態”とは、”熱狂的な信者”みたいな意味合いです。信者っていう表現は自分が求めているものとはまた違う気がして、結果このような言い回しになってしまった。熱狂的な変態は、いかなる時でも自分を応援してくれる。スランプに陥った時も、人生に大きく絶望している時も、そんな自分を温かく見守ってくれる。

 

 一人の友人が褒めてくれたことがキッカケで、自分は今日まで文章を書き続けている。友人の一言がなければ、現在このような形で文章を投稿することもなかっただろうと思う。そもそも、気持ちの捌け口として書いていただけの駄文が、評価されるだなんて思いもしなかった。彼女は深い穴の中にいた自分に手を差し伸べてくれた、そんな気がした。

 

 自分の文章に需要があるのかなんてわからない。こんなん誰が読むん?と思いながら書いている部分もある。それでも、アクセス解析を見る限りは日々顔も知らない誰かがこの場所を訪れていて、本当に有難いなと思う。もしかすると、文章なんて読まずに最短でページを閉じてるかもしれないけど、それはそれでいい。多くの方に届いてくれれば嬉しいけど、自分の目的はそこではない。あくまで自己表現の一環としてブログを書いているだけであって、読まれなければ読まれないで、それは仕方がないことだ。

 

 そうだとしても、誰にも読まれない文章をただ無闇に書き続けるという所業を自分は成し遂げることは出来ないだろう。読んでくれる人が一人でもいるとわかっているから、いつだって読み手の存在を感じるから、安心して書くことが出来る。知る限り、わたしにファンは存在していない。一年間ブログ投稿を続けてきたけど、一度たりともコメントがついたことはない。それでも、読んでくれる人がいる、受け取ってくれる人がいる。それだけで私は存在していくことが出来る、私はわたしのままでいいんだと実感出来る。

 

 

 大抵の人間は自分に見向きもしない、

 多くの人間から嫌われているかもしれない、

 

 その中で一人だけ、

 いつまでもこちらを眺める人がいる

 

 たったそれだけのことで、何もかもが救われる

 もう少しだけ、生きてみようと思えたから。