[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0115 アンインストール

 

 脳が悲鳴を上げている。

 

 ここ数日、インターネットに深く入り込み過ぎたせいか、脳味噌が大きく疲弊している。シンプルに情報過多、処理能力の酷使。いつもそうだ、あと少しもう少しだけと言いつつ情報から情報へと移り渡る。最初は目的があって検索していたことなのに、眼前に表示されている情報は最早本来の目的と何ら関係のないものだったりする。途中で気が付いたとしても既に手遅れで、”もう少し”を延長させてしまう馬鹿がいる。

 

 何度かこのブログで申し上げたことがあるけど、自分は脳のキャパシティが少ない。すぐに容量が一杯になってオーバーヒートしてしまう。特に莫大な情報量を有したインターネットには弱い傾向にある。それでも現代を生きる上でインターネットを活用しない手はない為、前もって閲覧時間を決めた上で利用する。これが自分の中での最適解なんだけど、ネット上(特にSNS)には様々な魅力的誘惑が手招きをしている。

 

 アルゴリズムが様々な関連情報を提供してくれる。「これはどう?」「これもいいんじゃない?」「こっちはもっと魅力的だよ」、言われるがままURLリンクをクリック、クリック、これで最後と思いクリック。画面をタップする打撃音だけが空虚に室内へ響き渡る。まるで脳味噌をハックされたような、自分の意志が優先されない感覚がある。活動名は「インターネットの奴隷 feat.情報の隷属」。ダサい、売れない、これじゃあ一生を費やしても”あなたへのオススメ”には表示されない。

 

 最近、Instagramとやらを始めて気づいたことなんだけど、自分はSNSに不向きだということ、それも圧倒的な勢いで。いいね!が押してもらえた時には嬉しくなるけど、その反面、押されなかった時に落ち込んでしまう。逐一反応を気にしてしまう自分がいて、その自分に対して物凄く嫌悪感を抱いてしまう。気楽に表現したいから投稿を始めたはずなのに、不特定多数の他人ウケを狙った投稿をしてしまっては本末転倒だ。もっといいね!が欲しい、もっとフォロワーが欲しい、もっと有名になりたい、みたいな俗物らしい承認欲求はまだ現れていないけど、このまま浸り続けると知らぬ間に飲み込まれていくのではないか、と恐ろしくなった。

 

 そんな恐怖から、Instagramを極力見ないことにした。数日間見ないだけで、いい意味でも悪い意味でもどうでもいいと思えるようになった。投稿する時にだけアプリを開く、その後にいいね!が押されようが押されまいが気にしないことにした(それでも押されていたら嬉しい)。そのぐらいが現在の自分には適している。初期の段階で手を打っておいて本当によかった。それと同時に、自分の脆さを知れてよかったとも思う。自分が自分でなくなるような感覚が本当に怖かった。

 

 情報過多に陥ると酷く心が不安定になる。そこでやっと気が付いて、あらゆる情報媒体から一時的に距離を置く。しばらくの間はアナログな生活に徹することで、徐々に心が回復していく。最近不安定だったのはまさに情報過多によるものだったのかもしれない。酒を飲んでも美味しくなかった、いくら眠っても眠り足りなかった。何を食べても空虚さだけが皿の上に残った。

 

 ブログそのものがインターネット上に存在しているから、日常の中から完全にネットを切り離す訳にはいかない。これは現在のわたしにとって生命線で、何よりも必要なものだから。だからこそ、その他の情報とは関わり方を考えていかなければならない。世の風潮に流されるだけではなく、時に抗うことも大切になる。自分らしく在る為に、自分自身が壊れない為に。

 

 

 時として、紙とペンを駆使して恋文を認める。 

 そんな生き方がわたしには丁度良いのかもしれない。