[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0230 ひとは水に浮くように

 

一番なりたくないものにひとはどうして

最短距離でなってしまえるのだろう

 

回春 / 女王蜂

 

 なりたい自分となりたくない自分。なりたくない姿から遠く離れることって難しいよな。気が付けばなりたくなかった自分にたどり着いていて、そんな現在を認められないから何とか抵抗しようとする。もがけばもがくほどに心身は傷ついて、なりたい姿だけがどこまでも遠のいていく。

 

 不安定な自分、酒に溺れる自分、他者に依存する自分、家族を蔑ろにする自分、嘘ばかり吐く自分、プライドだけが無駄に高い自分、そんな自分を傷つけるのもまた自分。あらゆる形をした歪な理想像ばかりが笑顔でこちらへ近づいてきて、油断すると頭の中へと浸透してる。わたしが私でなくなるように感じるけれど、いついかなる時も他人の目にはその姿も含めて『あなた』として映っている。

 

「深くまで沈んだ後には、一度全身の力を抜いてみて」

「ひとは水に浮くように出来てるから」

 

 いまの私が好きな言葉です。この言葉には”何もしなくてもいい”という意味合いは含まれていないように感じる。沈みきってしまった後には一度身体中の力を抜いてみて、そうして少し浮かび上がってきた時にどうするのかが大事。あくまで力を抜いたまま、何事にも抗うことなく、主体的に行動することで水面まで浮かび上がることが出来る。それは些細なことでいい、例えば自分が好きなスイーツを食べるとか、好きな作品を観るとか、心に波音を立てないでいてくれる友人に会うとか、何だっていい。行動をすれば良くも悪くも心身が反応するから、その中で良い反応だけを身体に取り込んでいく。そして疲れたらたくさん眠って、そういうことを何度も繰り返して、未来の中で何度だって浮かび上がればいいんだ。

 

 何もしないまま、受動的なままでは現状を変えることは難しい。これは自分の理想像だって同じこと。なりたいと願うだけ、なりたくないと恐れるだけでは、現実と理想がどこまでも解離を続けてしまう。そうならないようにわたし達は動き続ける必要があって、時には立ち止まることも大切で、それ故に深い場所まで沈み行く時期があることも必然なのだと思います。

 

 全身の力を抜くということは、現在の自分を受け入れること、そして幾らかの現状を諦めることでもあると私は思っていて。ここまで書いておいて何だけど、別に『なりたい姿』を自分自身が体現する必要性は全く無くて、自分が納得出来ているのなら『なりたくない姿』のまま生きていくのも全然いいじゃんって感じ。でも、なりたくない姿は幾らか否定的な意味合いを含んでいる場合が多いから、苦痛を伴いやすい。それだったら『なりたくない姿』を可視化してみて、その状態に陥らない為の生き方を心掛けてみてはどうだろうか?そう過去の自分に提案してやりたい。

 

 なるべく心に平静を保てるように、酒に溺れるのではなく泳げるように、噓は吐いても可愛らしさを忘れないように、なるべく自分に優しくなれるように。何もかもを止めてしまうのではなく、可能な範囲で少しばかりのエッセンスを加えてあげる。それでも尚、どうしても無理だと思うことは清々しいほどに諦めてしまう。そうして海底にいた自分と向き合っている内に自然と身体は浮き始めていて、その流れになるべく抗わないように、私は全身に圧し掛かる浮力だけを感じていた。

 

 

 もし、あなたが『なりたくない姿』になったとしても、私はその姿さえも素敵だなと思うけどね。