寡黙に生きたいな。
わたし、この場所では日々ペラペラと饒舌であるけれど、実体を伴う現実世界ではそこまで口数は多くない方だと思う。誰かと話すことは好き、だけど馬鹿みたいにペチャクチャ話し込むようなことはしない。静かに、流れるように、ゆっくりと会話を進めたい。
隙あらば群れて、品性を欠いた雑音を周囲に投げつける。本人は気が付かないだろうけど、周りの人間は結構迷惑に感じていたりする。もしかしてそう思っているのは私だけ?。鼓膜にノイズが鳴り響く感覚、徐々に心が削ぎ落されてゆく。帰りたい帰りたい、早くお家に帰りたい。
「あゝ、耳の穴にセメントを流し込みたい」
「上下の唇を医療用ホチキスでプレスして蝶を作りたい」
静かな人が好きだ。寡黙ながらも、朗らかな雰囲気を漂わせている人がいる。そういう方には話しかけてみたくなる。決して口数は多くないのに、どこか楽しそうなんだ。常に笑顔を浮かべている訳でもなく、それでいて仕草や息遣いからはどこか余裕を感じるような存在。話しかければご機嫌に会話をしてくれるし、同じ空間にいるけど話さなくても平気な人。
そんな人間に憧れを抱いていて、素敵だと思っている。だからといって、「努力を積み重ねて自分もそうなりたい」ということでは無い。憧れは、いつまでも憧れであってほしいと願っているし、そもそも”努力”って言葉にはどこか気が張っている感じがする。朗らかな人は自然体だ、その魅力を獲得する為に努力をしてきただろうけど、当人はその過程を”努力”だとは思っていない。それ故に自然体でいられるんだと思う。
意識して成れる状態ではなく、気が付いたらそう成っていた状態。わたしはそこを目指したい。ってかこんなことを言ってる時点で意識しちゃってるよな。意識しないことを意識してしまっている、まさに本末転倒である。
寡黙であることは、いまこの瞬間からでも始められる。取捨選択して必要な言葉だけを吐き出す、それだけでいい。
自分の口数が多ければ多いほど、"余計な一言"が零れ落ちる確率が高くなる。その一言が原因で関係性に亀裂が入ることは往々にして起きることだから、私たちは慎重に言葉を発する必要がある。不用意に言葉を発するから、周囲に不快感を与えてしまう。それならば、言葉を発しない方が幾らかましに思える。
「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉が示す通りに、私は黄金色を纏っていたい。しかし、あまりにも話さないでいると「何を考えてるかわからない」と敬遠されてしまうので、寡黙ながらも最低限の自己開示は必要になる。その塩梅が難しいのだけれど、難しいからこそ、成せた時には大きな魅力として開花する。
「寡黙はいつだって美しい。」
了