[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0252 夜の中で霧になって

 

 昨日もまた、叫んでいた。もちろん家の中で、もちろん一人きりで。いやぁ、久々に発狂した。上手くいかない時は何をやっても上手くいかないね。頭の中は散らかるばかりで、雑念を整えようとしても、整えることそのものに失敗して余計に取り乱す。まるで終わらない後片付け、やめてほしいと思うことばかりが寄せ集められた積み木遊びみたい。罵声、怒声、涙声、あらゆる声が頭に響くからそろそろ終わりにしてほしい。早く積み木の天辺に穏やかな三角を置いてしまいたい。緩やかに休まりたい。そんな祈りとは裏腹に、次の瞬間にはいとも簡単に崩れてしまう積み木。嗚呼、駄目だね。「はい、最初からやり直し」ーそう言われているみたいだ。

 

 緊急性がないけれども、自分にとって重要なことってあるじゃないですか? それがないと自分が枯れてしまうという意味合いでは優先事項な訳であって、でもそれが無くてもなんとか生きれてしまうようなもの。例えば、水とか最低限の食料は無いと生きていくことが出来ないけれど、お酒や好きな料理が無くても全然何とかなってしまうようなそんな感じ。ありとあらゆる芸術作品も、温かい家族も、広すぎる家も。そう考えると、人生っていうのは無くてもよいものばかりで構成されていることを思い知らされる。いまこの文章を書いているPCが無くても今後の人生を送ることは可能である。それでも、文章を書いて、投稿出来ない人生というのは色彩を奪われるに等しい遣る瀬無さがある。それってシンプルに悲しいし、楽しくない。ということは、PCは私にとっては必要な物であって、文章を書くこと、投稿することも自分には必要なことなのである。

 そういう具合に自分の中で優先事項を明らかにする過程で、必要としているのに持っていないものに気づくことがある。緊急性がないからこそ「そのうち手に入れればいっか」なんて思っている。例えば、わたしにとってそれは”家族”。部屋で一人きりで発狂していた時には「こんなんじゃ誰とも一緒に住まれへんやろ」とか思っていたりしたけど、それでもやっぱりこのまま人生を終えるのは虚しくて、一人の空間が焦燥を加速させる。こういうことを自分で言うのもなんだけど、人前では割とお利口さんなのだ、私。やっぱり同じ空間に誰かがいると(それが好き嫌いに関係なく)理性が落ち着いていられる。もしかするとそれは単なるペルソナで、ただ余所行きの自分なだけかもしれない。でもね、僕はその自分が中々に好きなのです。そういう時の自分は「いい感じだな」って感覚が身を包んでいるし、だからこそ人嫌いの一面があるくせに人と関わることが好きなのかもしれないな。

 手に入れたいはずなのに、先延ばしにして見ないフリばかりでいつの間にか置き去りにしてきた願望だったり、過去には手に入れていたのに欠片も残っていないものだったり。そういった手に掬うことが出来ないことばかりに意識が向いてしまうことがあって、自分でも思考の濁流が止められなくなって、苦しくなっちゃうことがよくある。いつまでこんなこと続けるんだろうって想いと、またやって来た、みたいなやってしまった感が相まって良くない汗が全身から吹き出る。ついでに声も喉から飛び出る。

 そういうのってしんどいよね。いつの間にか積み木遊びが展開されていて、積めども積めどもただ無様に崩れるばかりだ。そういう時に家でジッとしているともっと苦しくなるから、私は夜の中をただ闇雲に歩いてみたりする。夜といえども夏の蒸し暑さは健在していて、やがて全身が汗まみれになる。でも、この吹き出しは正常な発汗作用で、その健全さに少しばかり安堵する。一歩、また一歩と踏み出す度に頬を流れる水滴は、まるで涙のようだ。上手く泣くことができない私は、夜空の下で感情を吐露している。少しばかりロマンチックかしらと思ったけれど、素直に泣くことができるようになれば、もっと生きやすくなるのになぁ。これもまた、無いものに意識が向いているのかもしれないね。