[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0317 一方通行の手紙

 

 気持ちを伝える手段として、手紙を書くことが好きです。上手くペンが握れなくて、決して字が綺麗なわけではないけれど、自分が書く字も中々気に入っています。スマホでのフリック入力やキーボードでのタイピング入力も便利で素晴らしいけど、やっぱり、想いを届けることに関しては、手で書くことを好ましく思う。

 

 最後に手紙を書いたのはいつですか? もう何年も書いていない人、昨日書いた人、生活スタイルによって皆それぞれ異なるけれど、言葉を書いている瞬間は、どんな気持ちだったのでしょうか? 温かかった、悲しかった、締め付けられるようで苦しかった。もし何も感じなかったのだとすれば、それはただ紙の上にインクを走らせているだけ。手紙を書いているときは、ただ日常生活をおくるだけでは発生しない類の、感情の揺さぶりが生じる。なんというか、感情が溢れ出して、爆発しそうになるのです。これってわたしだけなのかな? ちょっぴり苦しくて、でもこの感覚を愛していて。書き終えた後は、いつもより少しだけ静寂が強くなる。

 

 手紙を選んでいる時間も好きです。相手のことを思い浮かべながら、イメージに近い便箋を用意する。できる限りシンプルに、余計な装飾はいらない。それでもなにか遊び心としてのワンポイントが欲しい。お店まで足を運んで、自分の目で見て、購入する。この時点ですでに手紙を書く工程が始まっているのだ。最近思ったのだけれど、手紙やポストカードが売られている場所が、段々と縮小している気がする。これはお店にもよると思うけど、それでも、数年前と比べると、随分とコンパクトになったように感じる。世間的に、手紙の需要が無くなりつつあるのだろうか。もしそうなのだとすれば、わたしはとても悲しい。好きなもの、愛しているものが退廃していく様は、まるで自分自身の一部分がシュレッダーにかけられているような、そんな感じがする。まだまだこれからも手紙の文化は残り続けるだろうけど、着々とその規模は肩を丸め膝を抱え込み、縮こまっていくのだろうな。

 

 手紙に費やす全ての時間が、豊かで、温かくて、ほんのちょっとだけ寂しくて、愛。社会人として生活しているなかで思うのは、意識しないと、わたしたちはほとんどペンを握らないという事実。デジタル機器の発展と普及により、もはや手続きのほとんどがインターネット上で行われているし、文章を書くのもデバイスをタップタップタップ。まさにこの文章もキーボードで入力されている。いってきます→ただいまの中で、自発的にペンを使用して言葉を書くことが、ほとんど無かった。もちろん、書類にチェックを記したり、ほんの些細なことを付箋にメモしたり、そういうことはあるけれど、総計時間で考えれば本当に僅かなものだと思う。学生の時は、ずっとペンを握っていたよなぁ。小学生のときは鉛筆で、中学生からシャープペンシルを使うようになった。やがて、ボールペンを使うようになり、気が付けば社会に身を置いていた。勿論授業はなくなり、勉強机がなくなり、ペンを握る習慣が無くなった。これは職業によるとは思うけれど、現代人、手書きで文字を書く機会が減ったよなぁ。本当にこれはわたしのエゴなのだけれど、そのことを密かに悲しく感じるのであった。

 

 夜の時間にノートを書いています。日記、というほど仰々しいものではなく、その瞬間に思ったことを全て吐き出す為の方眼ノート。デジタルでも、アナログでも、思いを言葉にして残したい。後になって見返してみると、情け無いこと、本当にどうでもいいこと、割と大事な気づき、様々なことが書かれてある。このノートは、未来の自分に向けた手紙でもあるのだった。いまのわたしは過去となり、次々と消えてしまうけれど、言葉だけは紙の上に残り続ける。それを未来の自分が見たときに、一体彼はなにを思うのか、なにを感じるのか。そういうことを考えたり、実際に感じたりすることがとても楽しい。悲観的な眺望も、未来ではその姿を変えていることがあって、自分がしっかり歩いていることを再認識する。

 

 毎日のように手紙を書いている。それは自分に宛てたもので、他のだれかへの想いではない。今日は手紙を書いている。それは大切な人への想いで、温もりで、ほんの少しの自分のエゴで。文体が少しだけザワついている、その落ち着かなさがとても心地好い。結局のところ、言葉にしないと何も伝わらないのだ。伝えるために言葉がある、無数に在る言葉のなかで、わたし達は生きている。これからもわたしは手紙を書き続ける。伝えたい想いを、届けるために。