[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0340 迷路は上から眺めれば

 

 生きているだけで情報過多、ちょっと気を抜いただけで現実がなにも見えなくなる。つかの間の休息、深呼吸はわたしのこと救ってくれない。焦燥感ばかりが頭のなかを駆け巡り、血眼、映し出された舞台のうえで踊ってる。いつまで経っても音楽は鳴りやまなくて、ずっとずっとそこはダンスホールで、もっともっと踊りなさい。激しく、表現豊かに、情熱的に、死ぬまで! これはもはや脅迫、いやどちらかといえば強迫。人間の脳とやらはいとも簡単にハッキングされる。iphoneに本体を乗っ取られてる。電脳世界の方が楽しいだなんて、そっちばかり見つめてるなんて、家族とか、犬とか猫とか、同じ空間にいる誰も彼もを視界のなかから抹殺している。スクリーンに映し出された魅力的な何もかもがドットの集合体なのにも関わらず、わたしたちはそんな当たり前のこと忘れてしまえる。目の前の快楽を追求して、気持ち良くなっちゃって、振り返ったときにたくさんの大切なもの見失って。眼球までもがハッキング、なんにもなんにも見えないままで生きておる。

 

 楽しければそれでいい、というわけにはいかなくて。だからといって「苦しみなさい」ということでもない。人間は楽なほうに流されてしまう生き物だから、「気をつけてください」ということである。コミュニケーションとかもそう、だれかと関わるのは疲れる部分もあるし、言いにくいことを言わなくちゃいけない時もあって、だったら誰とも関わらんかったらいいやん戦線離脱コミュニケーション放棄、という生き方もあるのだろうけど、自分一人の世界にジッと閉じこもってしまうと視野がものすごく狭くなるし、精神がズンドコ音をたてながらぶっ壊れていく。前提として社会的な生き物なのだな、我々は。だからちょっと苦しい場面があっても人々とのコミュニケーションは必要だと思っていて、だからこそ幸せとか嬉しくなる瞬間が訪れる。運動とかも同じ、身体が慣れてくるまではただひたすらにしんどい、「こんなのただの苦行主義じゃんか......」とすら思ってしまう。けれども、運動をやり終えたあとには気持ち良くなってるものなんである。お風呂は入るまでが地獄で入ってしまえばそこは極楽なのと同じように、最初に楽な方選んじゃうと、その後に自分を抱きしめてくれるもの、なにも受け取れなくなってしまう。

 

 こんなこと書きながらも定期的に塞ぎ込んでしまうわたし。理屈ではどうにもできない精神状態が恨めしい。キラキラと輝く仮想現実のなかで楽ばかりして生きていたい。薄い板切れを指ですいすいスクロールするだけで瞬く間に世界のチャンネルが切り替わる。まるでそこに表示されているそのすべてが真実であるかのように錯覚する。嗚呼、またもや脳のハッキング。目の前にある楽な方へと誘導され、ヨダレを垂らしながらその後を追ってる。頭に流れてくるミュージック、鳴り止まないダンスフロア。踊れ、踊れ、いつまでも踊れ。自分の殻に押しつぶされ心が死んだ、テクノロジーの奴隷、大切なものってなんのこと? 思考停止していく、感情が排水溝に流れていく。こういう時、わたしはどうしようもなく鳥になりたいと願う。何色でもいい、小さくても構わないから、翼を持った鳥になりたい。空高く飛んで、そこに立ち尽くす自分のこと、眺めたい。きみはひどく悪い顔色をしていて、そのままじゃいけない目を覚ましておくれよと言わんばかりに、くちばしで頭を小突きたい。