[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0310 memai.

 

 好きなバンドが解散した。今年に入って、一番聴いていた曲、それを生み出した人たちが散り散りになっていく。一人でなにかをつくるよりも、複数のエネルギーを掛け合わせた方がより大きな作品を生み出せる。それ故の方向性の違い、それ故の、大きな別れ。

 

 痛みを分け合う事に正しさが含まれているのだとすれば、誰かに寄りかかることはしたくないと思う。いかなる時も、等身大の痛みを感じていたい。そう考えているわたしが描いている理想は、痛みの共有。分け合うことはない、痛みの分量は全くもって変わらない。けれども、こんな人間がいるということを世の誰かに知ってもらうこと。それだけで、自分の中で痛みがエネルギーに変換されるような、そんな感覚に身を包まれる。思うに、芸術というのは大なり小なりの痛みを背負っていて、だからこそ、人によって心に響く部分が違ってくるのだと思う。「芸術は爆発だ」と岡本太郎氏は言った。やはり爆発の先にも痛みが待ち受けていて、爆風と共に肌に刺さったガラス片が、いつまでも抜けないままでいる。

 

 痛みの共有を表現する上で、バンドというのは直感的にとても分かりやすい。メンバー各自それぞれの痛みを音に乗せる。複数の痛みが伴った音には厚みが出る。それにわたしたちは心を動かされる。いつかはLIVEに行きたいと思っていたらコロナが覆いかぶさり、落ち着いた頃には活動がストップしていて、最後は静かに解散された。"いつか"なんて永遠にやってこないのだ。"機会があれば"の機会が都合良く現れることなどあり得なかった。行動力というのは、人生そのものを左右するのだな。会いたいひとには、会いにいく。触れたいものがあれば、勇気を出して触れてみる。人生は恐ろしいほどにシンプルなのでした。人生のなかから「でも、」という選択肢を抹殺したい。やらない言い訳、動かない言い訳を、自分の力で粉砕していきたい。

 

 解散しても、世に生み落とされた作品は残り続ける。iPhoneを手に取れば、いつでも作品に触れることができる。その状況が解散の事実をより色濃く反映させるというか、もう新曲が出ることの無い儚さを実感させられる。いっそのこと、もう今後一切作品に触れられない方が良かったのかもしれない。とは思ったものの、こんなにも素晴らしい音たちを、自分のなかで無かったことにするなんて、それはあまりにも人生の色彩が薄れてしまう。いつも聴いていたのは辛くて苦しいときばかりで、肯定も否定もせずそっと寄り添ってくれるような、少しだけ冷たい音楽でした。もう奏でられることはないけれど、いつでも帰ってこられる悲しい居場所として、ずっとずっと、音楽はそこで鳴り続けている。