[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0349 自己啓発、かがみ

 

 なんか急に自分の中にある意識、高くなる時があって普段は隅っこで大人しくしてるんやけど高くなる瞬間があって、そういう時、とりあえず本屋に駆け込み自己啓発書とやらを買い漁る。文学や哲学以外にも割と好きなのだ、自己啓発書。響きが馬鹿っぽくて好ましい。なんやの自己啓発って、書かれてあることはやはり意識を刺激するようなことばかりでそれだけでたっぷりドーパミン。カフェでゆっくりコーヒーでも飲みながら、粛々と自己を啓発していく、いいね、これいいね。数日後ふと我に返ったとき、あれは一体なんだったんだろうか、部屋に取り残された数冊が、ただ虚しい顔をして積み上がっている。

 

 そこに書かれてあることは著者が体感した真実であって、でもそれを読んだだけでなんだか自分も変われるような気がして、それが頭のどこかで変われる→変わったに置き換わりまして、読後爽快な優越感、よっしゃ明日からも頑張りますかとなる。翌日にはそこに書かれていたことのほとんどが頭から抜け落ちていて、あらま、自意識なんにも変わらない。結局のところ行動に移さねば変わるはずがなく、「行動してはじめて自分を変えることができる」というようなこともどこかの自己啓発書に記されていて、「この中のどれか一つでもいいので実行してみて下さい」なんてどの本にも記載されていて、「じゃあこれをやってみよう!」と意気込むものの自分には合わなくて見事惨敗。著者にとっての正解、偉人にとっての正解は、何者でもないわたしには不正解だったみたい。合う、合わないがある、そんなことわかってる。例えば、「人生を好転する習慣」という項目で”早起きをする”が必ずといっていいほどランクインしている。いや、そんなんもうとっくにやってるわ...... 既に実行してるんやけど、ってことばかりで、実行した上での現在なんやけど。結局、人間は自分に必要なこと、自然と生活に落とし込んでいるものなのだ。最近つくづくそう思うのだった。読んでいてピンとくるもの、よくよく考えたら既にやってる。既に行動しているからその項目にピンとくるのか、無意識にピンときていたから自然と実行できていたのか、今度はそっちが気になってきて、目の前に書かれてある数々の有り難い言葉、なんにも頭に入ってこなくなる。

 

 そうこうしている内にたどり着く最果て。「小説読んでる方がたくさんの気付きがある」なのだった。自己啓発書を悪く言うつもりはこれっぽちもない、たまの息抜きとしてはとても楽しい。だけど、そこに自分の変化を見いだそうとしても、その鏡にはなにも映らない。なんにも反射してこないのだ。物語を通して心に流れる機微、小説には「浸る」という表現がとてもしっくりくる(作品にもよるけれど)。巷にあふれる自己啓発は散歩、ほおーん、こういう考えもあるのねぇ、程度が丁度良い。自分と向き合うこと、それとはまた違う手軽な脳のストレッチ。内へ、内へと沈みたいときにはやっぱり私、小説がお好き。人にとっての物語がある、人にとっての解釈がある。解釈という解釈も人によって違っていて、もう言葉だけが身体を抜け出して空に舞い上がるような、そんな感じ。一体なにを言っているんだと思うでしょう? わたしだって書きながら同じことを思っています。でも、こんな抽象的なこと、きっと誰も啓発してくれない。自分の五感を使って、花の芽を丁寧に摘んでいくしかないのだと思います。統計とかエビデンスとか、そういうのはもう疲れちゃった。また沈んでいく、物語の海へと遠く深く。部屋に取り残された数冊が、ただ虚しい顔をしてこちらを見つめている。