[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0221 ありのままの一日

 

 昨日は急に心が不安定になったから、21時過ぎには眠りについていた。頭の中がこんがらがっている時は、とにもかくにも眠ることが一番だ。翌朝には案外平気になっていることもある。そうでなくても眠っている間は余計なことを考えずに済む。眠れるなら、眠ってしまえホトトギスと詠いたい。不安が積み重なって上手く眠れない時も多いけれど、一先ず横になって目を瞑るだけでも心が少しずつ安らいでいく気がする。この不確かな錯覚は大いに役に立つ。

 

 アラーム音で目が覚めた。いつも通りの起床時刻、少し長めの睡眠時間、中途覚醒はなく熟睡感を存分に味わう。それでも身体が思うように動かないでいる。「あっ、これはマズイやつ」自分の直感が激しく警笛を鳴らしていた。朝にはめっぽう強い方なんだけど、間違いなく自分の心が『動きたくねぇ』と吠えている。冷えたマットレスが身体の温もりに呼応するように、心と身体も連動している。アラームを止めても尚、ベッドに倒れ込んだまま起き上がることが難しかった。死にたいとか苦しいとかそんなんじゃなくて、とにかく動けないし動かないままの頑固な身体と睨めっこをしていた。「駄目だこりゃ」観念したわたしは離れたところにあったiPhoneを何とか手繰り寄せ、発光するスクリーンに目を細めながら上司への休み交渉を行っていた。

 

 AM6:30に繰り広げられる健全なる業務連絡。初発のメッセージを送った段階で耐えられなくなったわたしは再び眠りについていた。そこから2時間が経過する頃合いに再度目を覚ましたわたしは、iPhoneのロックを解除して上司からの返信を確認する。真っ黒なスクリーンに「大丈夫、休みなさい」と有難い一言が浮かび上がる。『あぁマジで神だわ最高よ上司本当に感謝してる』の意を込めて、”あ”の予測変換で表示された「ありがとうございます。」をサクッと返信した。大きく安堵したわたしは、3度目の夢を見る為にゆっくりと瞼を閉じていった。

 

 もうこれ以上眠れませんと身体が悲鳴を上げるまで入眠と覚醒を繰り返した。目が覚めてからも起き上がる気になれず、手元にあったiPadで「チェンソーマン」と「ちひろさん」を一巻ずつ読み、ある程度の満足感を獲得したわたしはPCデスクと向き合った。何もする気になれなかったので受動的にSNSを垂れ流していたんだけど、途中から精神的な吐き気に襲われ始め、やがて開いていたすべてのタブを閉じてしまった。濁流のようなインターネットにウンザリし始めた頃合い、唐突に腹が爆音を轟かせる。そういえば今日は何も口にしていないことに、そこで初めて気が付いた。

 

 昔からわたしは食べなければ食べないほど瘦せてしまう。文字にすると当たり前のことのように感じるけれど、他の人の倍以上のペースで瘦せていく(多分)。世の中では性別問わずダイエット、痩せ型且つ程よく筋肉がついている体型が好しとされている。雑誌を見ていてもあらゆる分野でのダイエット特集は組まれているのに、脂肪増量習慣みたいな特集は未だかつて見たことがない。そんなものは世の中に需要がないのだ。ちょっと話しがずれたけど、勝手に必要以上に脂肪が削がれていくこの体質が、少しばかりのコンプレックスでもある。蓄積されている脂肪が負荷をかけることによって筋肉に変貌するから、原理的に筋肉もつきにくく、ついたとしてもカロリーが不足した時に真っ先に分解されてしまうから、維持するのも一苦労です。

 

 もう何百回と言われてきたであろう「ガリガリ」という揶揄を最近やっと言われなくなってきた。今ここで瘦せ瘦せに逆戻りすることは避けなくてはいけない。だからこそ出来る限り、しんどくてもご飯は食べるようにしている。味がしなくても、寂しくても、栄養補給という作業でもいいから食べるようにしている。今日はこのままだと食べない気がしていた、だからといっていつものメニューを作る気力もなく、家で食べる気力もありはしない。普段よりも重い身体を何とか持ち上げて、家から徒歩3分の場所にあるカフェに向かった。

 

 いつもと同じメニュー、トーストとハムエッグとサラダ、そしてアイスコーヒーがテーブル上に並ぶ。本当に有難いなと思う、お金を支払えば顔見知りの店員さんがご飯を作ってくれる。何なら後片付けまでやって下さる。この現状に感謝することしか出来ない自分、予測変換などではない肉声で「ごちそうさまでした。いつもありがとうございます。」と伝えることが精一杯な自分。精一杯を伝えることが出来ている自分、その自分って悪くないんじゃないのと思えている自分、ありとあらゆる自分の欠片をこの重い全身で感じながら、少し遠回りをしていつもとは違う帰路を歩んだ。

 

 アスファルトに散らばる桜を見ると、何も変わらないままの自分が思い浮かぶ。もう誰にも何も言わないと決心した、苦しみは自分の中で引き受ける覚悟を持った。そうすることで、誰かに依存することもなくなり、親しい人から頼られる機会も多くなった。それでも変わらないままの、いや、以前にも増してどうしようもなく空虚な自分が佇んでいて、その姿はずっと温もりへの帰省を待ちわびているようだった。可哀想に、そんなに寂し気な顔をして、結局は”私、わたし、ワタシ”で自分が可愛くて堪らないのね。自己憐憫は即ち、人生の在り方に同情するということ。同情と優しさはイコールではない、寧ろ対極的な存在だとわたしは思っているよ。だから私は、そこに散らばる桜に優しくする。桜に優しい自分で在りたいから、それが自己愛へと繋がると信じているから。桜と自分自身を重ねるなんて、おこがましいかな?それでもわたしは、おこがましいままの私として生きていたいのです。

 

 

『もう誰にも何も言わないと決心した』のに、

 ここでは何でも話してしまうからどうしようもない。

 

 その矛盾さえも、愛していければいいのにね。