[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0223 静かな鼓膜

 

 わたしは初めてCDを買った十歳の頃から、一日の大半を音楽に埋もれながら過ごしている。

 

 J-POPから始まり、ヴィジュアル系、ハードコア、EDM、ジャズ、クラシック等々。年齢を重ねるにつれて触れる音楽にも移ろいが生じた。特定のジャンルに精通しているかと言われれば全くそんなことはなくて、気に入った曲を何度も繰り返し聴き入るタイプ。それ故にいつまで経ってもどのジャンルにも詳しくならないままだ、多分。そもそも上記で挙げたジャンルの名称でさえ合っているのか疑問なところで、全然まったく自信がありません。

 

 それでも音楽が好きかと問われれば、一寸の迷いなく深く首肯するでしょう。好きな事と詳しいことは必ずしもイコールとは限らない。自分には欠かせない一部分として生活の中に上手く溶け込んでいる。文字通り形なく、それでも優しいクッションの様な役割で。

 

 帰宅すると、先ずはスピーカーの電源をONにして音楽で部屋を満たす。もう何年も続いているこの身に沁み込んだルーティン。部屋で音楽を流す理由の一つに、寂しいからというのがある。自分の意思で早くから実家を飛び出したくせに、一人の部屋に帰ることがずっと寂しかった。室内に響き渡る「ただいま」が所在無さげに床の隅に積み重なっていた。静寂に耐えられなかった、どうしようもなく恐ろしかった。せめてもの温もりを鼓膜で感じたくて音楽にばかり頼り続けた。何度も聴いた曲、いつまでも変わらないままの部屋とわたし。室内ではいつも誰かが演奏していて、時折だれかが唄っている。

 

 眠る時にもタイマー機能を活用してα波的な睡眠導入音楽を垂れ流している。通勤時にもAirpodsを耳に装着してアガるミュージックを聴いている。運動中も、何なら仕事中もどこかしこで流行りのJ-POPが無意識下に刻まれている。睡眠中と他人と会っている時以外、ずっとずっと音楽だ。いつでも踊る準備は出来ているし、寧ろずっと踊り続けているのかもしれない。

 

『プツッ』

 

 ある日、イヤホンの線が切れたように湧き出た"疲れた"という感情。そもそもBluetoothで接続されているから線が無いんだけど、見えない何かがプッツリと切れた感じ。何というか、ずっと音楽が鼓膜に入ってくる状況に突然嫌気が差した。こんなことあるのかと自分自身でも驚いた。

 

 最初は通勤時に音楽を聴くことを止めた。ほぼほぼ無意識的に自然な流れとして止めていた。ただボーっとしながら朝の中を歩く、耳に入ってくるのは車の走行音、立ち話をするご婦人達のウィスパーボイス、出社前から絶望しているスーツに身を包んだ溜め息、日によって異なる車両アナウンス、耳を横切る風の音、都会の中を生きる野鳥のさえずり。様々な”音”があることに驚いた。長年遮ってきた当たり前の雑音が、今の自分にとっては新鮮なスパイスとして作用する。ほんの少しだけ、世界が開けたような感覚になった。

 

 同じ様に家で音楽を流すことを止めてみた。外とはまったく違う、圧倒的な空虚が身体全体に圧し掛かる。最早”静寂”が音となり鼓膜に響き渡るほどに、その感覚は異様だった。自分はこの静けさから長年逃げ続けてきたんだと思うと、今の自分が少しだけ誇らしげに感じた。確かに、毎日の中が虚無で埋め尽くされている。けれども、今のわたしは全く寂しさを感じていないんだ。孤独で在る覚悟を持ったのか、ありもしない温もりを諦めてしまったのか、何故こうなったのかは自分でもわからない。それでも、とても清々しい気持ちでいることには変わりなくて、今ならこの静寂も受け容れられる。「ただいま」を自分自身で受け取ることが出来る。たったそれだけのことで、名も無き第一歩を踏み出したような気持ちになった。

 

 静寂の中で初めて、微かに聞こえてくる隣人の話し声だったり、盛大なクシャミ音が壁を貫通してくることに気が付く。「ずっと気付かなかったけど、案外この物件は壁が薄いのかもしれないな」なんてことを思いながら、静かにスピーカーに手を伸ばし、控え目なクラシック音楽で空間を埋めた。静寂はたまに訪れるから良いのであって、常態化はわたしには合わないな。それでも時折、意識的に静寂を創造する日常の一部分があって、その時間をわたしは限りなく愛しているのです。