[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0190 いつでも帰っておいで

 

 意識的に何かに取り組もうと決心してもその意思が長く続かないことが多くて、気が付いた時には生活の中から姿を消している。何となくゆるい気持ちで始めた一つの行動が気づけば毎日繰り返すようになっていて、時間経過と共に自分の身に深く染み込んでいく。強い意思を持つことの儚さを実感する瞬間でもあり、習慣化の困難を痛感する場面でもあって、色々と考えさせられるなぁと他人事のように思う。

 

 極度のめんどくさがり屋である自分でも、定期的に部屋を掃除して綺麗を保っているつもりだった。ここで問題になるのが”定期的”の曖昧さなんだけど、自分の場合は一か月とかその程度の頻度になる。そして、友人知人が家に遊びに来るタイミングでまとめて掃除をするイメージ。そんな感じでも家に来た方からは「綺麗だね」なんて言ってもらえていたから、これで大丈夫なんだと思っていた。

 

 そうこうしているうちに不潔恐怖になってしまって、汚染に対する極度の恐れから触れられない部分も増えてしまって、だんだんと掃除が難しくなっていった。正確に言えば掃除はしているのだけれど、自分に出来る範囲の場所しか取り組まなくて、出来ない触れない部分は現実逃避の如く放置するようになった。

 

 まとめて掃除をするから精神が大幅に疲れてしまうのであって、毎日少しずつなら綺麗にすることが出来るんじゃないだろうか。そんなことをふと思いついた。一日一箇所十分まで、という明確なルールを決めて朝の時間に組み込むことにした。苦手な場所や恐怖対象でも、今日はその場所しかやらないと思えば何とか綺麗にすることが出来た。何となく取り組んだ行動が、思いのほか功を奏して驚いた。

 

 それからというものの、毎日こまめに掃除するようになった。家の中が綺麗になると、単純に心地が良い。掃除って投資効率が高いよなと思う。掃除道具なんて値段は高が知れているし、毎日行えば時間はそこまで必要ない。取り組めば取り組んだ分だけ室内が綺麗になるし、その綺麗な環境を維持したいと思える。家が綺麗だと自宅がもっと好きになるし、その綺麗な家に住んでいる自分のことも少しだけ好きになれる。「最高じゃん」そんな感じでドーパミンがドバドバ放出されている実感がある。

 

 

 自分の中での目標として、”いつでも他人が立ち寄れる家”を目指している。「今から遊びに行ってもいい?」と連絡が来て、「ちょっと待ってね、部屋を片付けないといけないから」なんて言うのはダサイじゃない。「いいよ、待ってる」って言いたい。その為には綺麗さが保たれている必要があって、もう少し立地の良い場所に引っ越してもいいかもしれない。雨が降ったから雨宿りさせて、一杯だけコーヒー飲みに行くわ、なんもないけど暇やったから来た。最早理由なんていらない、来たけりゃ来ればいい。誰かの帰る家にはなれないかもしれないけれど、一つの休息地点にはなることが出来る。誰かが家に来てくれれば私は嬉しいし、家だと好き放題酒が飲めるし話せるし、眠くなったら私は勝手に眠る。帰りたくなければ帰らなければいいし、好きにすればいい。

 

 過去の私がたった一つの居場所に救われたように、わたしの創った居場所が一つのキッカケになってくれれば嬉しいんだけどな。これは単なるエゴかもしれないけれどね。