[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0435 あたり前のことなんて

 

「あたり前のことに感謝しましょう」

 

 賢人は言った。今日目覚めること、住む家があること、家族がいること、友人がいること、仕事があること、お金をいただけること、ご飯が食べられること、愛すること、愛されること、眠れること。それらを統合すればこれ即ち「日常」、あらゆることに感謝して生きていれば、自然と幸福度は高くなるんだろう。けれども、ここで一度立ち止まって考えたい。幸福度が高いことによって生じる弊害、結果的に不幸が発生する場合だってあるということを。

 

 見るからに幸せそうな人はある種の清々しさがある。そこには押し付けがましくない幸福がある。いいね、素晴らしい、そう思える人ってのはこれまた多少なりとも余裕がある人なのであって、もう全然自分のなかに余白がない人からしてみれば、その清々しさが鬱陶しく感じたりするもんである。例外なく過去のわたしもそうだった。なにが感謝やねん、幸せやねん、愛やねん、家族やねん。捻くれた思考回路は止まることを知らず、幸せそうな奴はみんな堕ちてしまえと思っていた。それらはすべて自分自身へ還ってくるのにも関わらず、あゝ、なんとも愚かな願い。

 

 結局はみんな他人、誰がどうであろうとも自分は何にも変わらないはずなのに、幸せそうな人たちが妬ましかった。そう、幸福のまわりには他人のモヤついた怨念がウロチョロする場合がある。ネガティブ感情なんてなんのその、マジでわたし幸せやからお前らのアホみたいな嫉妬なんてどうでもええわ。ぐらい逞しい感情の持ち主なら傷を負うことはないのだろうけど、そこまで頑強ではない人、結構柔らかくて優しい心の持ち主は、周囲のネガティブ感情にやられてしまったりする。幸福であることが不幸の起因になる、そんなことあっていいもんなんだろうか。

 

 ネガティブな人間ってのは、ってかそもそも人間という生き物は、感情が二転三転するものだ。コロコロ心が入れ替わっている。「あいつ嫌な奴だな」と感じていたものが、ちょーっと優しくされただけで「まぁ、そこまで悪くはないかも」となる。逆に冷たく対応されただけで、「いい人」だったものがいとも簡単に「は?なにあいつ」になったりする。相手の対応次第でこうも変わるものなのか、ってこと、日々この身で痛感している。「聞いてよ、こんなことがあってね」と自慢話ばかりする人には「うわぁ、また始まった勘弁してくれ」と思うんだけど、「それでね、そこで見つけたこのお菓子がとても美味しいから食べてみて」と菓子折り一つポンと手渡されただけで、なんとも言えない感情、逆転の圧倒的好感を抱いてしまう。

 

 思うに、幸福を独り占めしようとするから周囲が邪魔してくるのであって、その幸をみんなに少しずつお裾分けすることができれば、誰からも応援される人間になれるのではないだろうか。それが感謝すること、あたり前を再認識することになる。現在の自分というのは、いろんな人に助けられて成った姿なんである。親がいなければ存在していない、環境が整わなければ努力もできない、楽しむことができなければ幸せは遠のいていく。たくさんの人に助けられたこと、迷惑をかけたこと、色んな感情が土台となって感謝が成立する。ただ単に「ありがとう」の五文字を発すればいいってもんじゃない。土台を理解していることが何よりも肝心。

 

 最近、行きつけのカフェで店員さんに「いつもありがとうございます」と伝えるようにしている。以前までは小声で「ありがとうございます......」と言う程度だった。それがちゃんと目を見ながら、ゆっくりと伝えてみたところ、店員さんの反応が全然ちがうのだ。気のせいかもしれないけど、以前よりもなんだか優しくなった気がする。優しくされるとこちらも嬉しくなって、もっと優しくありたいと思う。いい客でありたいと思える。お金を支払って、軽食とコーヒーをいただいて、「あぁ美味しかったな幸せです」と自己完結の満足を得るのはいいんだけど、できればもう一声ほしいところ。食事を作って下さる方がいて、コーヒーを淹れて下さる方がいて、それを運んで下さる方がいる。店内を清掃して下さる方がいる。そういったこと、「あたり前」をちゃんと自分のなかで認識して、正面からお相手に「ありがとうございます」を伝える。チップを渡したわけでもなく、物を手渡したわけでもない。ほんの些細な気遣い、言葉を相手に届けることによって、そこに新たな関係性が生まれるのだ。そんな好循環、幸福を独り占めしないこと、そんな生き方が出来るようになりたい。嫉妬される人生もいいかもしれないけれど、それよりも、突き抜けてぐうの音も出ないほどの人間に。満たされている時は誰かに分け与えられる存在に。なりたいもんですね、憧れの人生。