[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0418 ほんの少しの失望を

 

「きみはその感情を必要としてるよ」

 

 わたしのことをよく知る友人からこんなことを言われた。もっと簡単に、楽に生きていたいだけなんだけどなぁ。漏らした一言とは裏腹に、わたしはこの息苦しさを必要としているらしいのだ。そして、自ら選択した落ち込みの上でヘラヘラ笑っている。

 

 失望。時々、積み上げてきたものをぶっ壊したくなる瞬間があるんです。思うにわたしはハッピーエンドを望んでいない。世の中が定義するシンプルな幸福を手にしたいとは思えない。それら全てが他人軸の上で回転していて、魅力的だとは思えない。小説も、漫画も、映画も、鬱々とした作品に胸がときめく。濃くて重い青色が好きなのです。そして、最近になって気が付いたのだけれど、現実というやつにはたくさんの青色が散乱している。非常に残酷であることが世の常です。あぁ、なんてことだろう、素晴らしい娯楽を見つけてしまった感覚。そういえば、インターネットに大切なことは載っていない。もうなんにも面白くない、楽しくない、生きていたくない。いついかなる時、どんな隙間からも現実はヌルっと滑り込んできて、追い打ちをかけるように失意のどん底へと招かれる。それこそが現実で、濃淡な青色なのであった。

 

 こんにちは絶望。彼は気まぐれでやってくる。季節の変わり目は居心地がよいみたい、ずっと側で嗤っている。以前は苦しくてたまらなかったけど、なんかいいよなと思えるようになった。ずっと絶好調で明るくて前向きで、「人生最高!幸せ!」とか言っちゃう太陽みたいな人間が苦手なのよ。幸せの定義みたいなもんは人それぞれで、だとすればわたしは少しの失望を必要としていた。言葉を選ばずに言うのであれば、わたしは世の中のことを少しだけ諦めていたい。駄目だこりゃ、って思っていたいのです。そんな世界にも優しい人、魅力的な人、愛しい人というのはいらっしゃる。そんな彼らは眩しいくらいに輝いている。視界が暗いから、たまに差し込む陽光に心癒される。失望のなかで踊っていたい。明るくも暗くもない他愛のなさを、もっともっと愛でていたい。

 

 例えば、身近な人が落ち込んでいる。その話しを聞いたとき、それがどんな感情であってもわたしは「人間らしい」と感じることが多い。それは良い意味で、好い意味合いで。感情の大きな振れ幅、というのは人間が持つ特権じゃないですか。即ち、落胆することは人間らしさの一部分であって、わたしはその「らしさ」をとても愛しく思うのです。嬉しかった出来事を聞いているときも楽しいけれど、悲しかったことを聞いているときは何とも言えない感情になる。共感とも同情とも違う、薄暗い、けれどもそこには綺麗な青色。その感覚を味わっているときに、生きていることを実感します。これこそが現実、という感触的なものが途端に姿を現す。だからわたしは、色んな人とお話がしたい。楽しかったことや悲しかったことを聞いていたい。時には一緒に落ち込んで、人生のことが嫌になりたい。失望、そんな感じでいいと思うのです人生。目にした青色が綺麗であったなら、たったそれだけでよかったのだ。そう思える現状こそが、幸福の一部分なのかもしれません。