[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0494 お手軽な幸福

 

 現代では娯楽にほとんどお金がかからなくなった。本は一冊千円程度、図書館を利用すれば無料で読むことも出来る。映画は動画配信サービスに入会すればこれまた千円程度で見放題。音楽も配信サービスで千円程度、YOUTUBEならPVを無料で閲覧できる。煙草やらお酒やらギャンブルなんかは、たくさんのお金が必要になる場合もあるけれど、贅沢を言わなければ基本的に、少ないお金で日々を楽しむことは可能だと思っている。

 

 いい時代になったと思う。安価で、便利で、快適ではあるのだけれど、微細な何かがずっと心に引っかかっている。本当にこれでよかったんだろうか、ってこと、たまに考える時がある。文化的作品がファストに消費される世の流れが、何となく悲しいのだ。わたしがこの作品に携わったわけではない、それでもどこか心が萎んでしまう瞬間がある。

 

 映画館が好きだ。お金を支払って、映像作品の世界に数時間トリップする。家でネットフリックスを観るのとは訳がちがう、没入感が全く異次元のものである。そして、その作品に対してお金を支払っている感覚、映画館の運営費の一部になっている感覚。自己満足ではあるけれど、これらもわたしを満たしてくれる。少ないお金で生きていくことは素晴らしいけれど、わたしは作品に対して、携わっている全ての人に対して、お金をババンと支払わせていただきたい。そんな欲望を持ち合わせていることに気が付いた。

 

 本は電子書籍よりも物理本の方が好き。物質の有無の問題もあるけれど、お金の流れ方も違ってくる。電子書籍はKindleを利用していて、わたしが本を購入して発生したお金は著者とAmazonに流れていく。一方、街中の書店で購入した場合には、著者と書店の運営費にお金が流れる。わたしは小さい頃から書店という空間が好きだった。なんとなく、とっても丁寧な感じがして、親に連れて行ってもらう度にワクワクしていた。時が経ち、場所が移り、もうその書店に通うことはなくなったけれど、それでもわたしにとって「本屋さん」という場所は特別なものであった。以前読んだとある記事にて、書店経営が厳しい現状にあることが書かれてあった。出版不況、スマホの普及による読書離れ、様々な要因があるのだろうけど、それでもなんとか頑張って欲しい消費者としての気持ちがある。個人的に、紙媒体の本がこの世から消滅することはしばらく無いと考えていて、それでも、年々全国の書店規模は縮小している。頻繁に通っていた書店が閉店した時は胸が痛くなった、まるで自分の一部分が失われたような、そんな気持ち。

 

 自分がこんな考え方をしているなんて、つい先ほどまで気が付かなかった。だからわたしは、飲み屋でお酒を飲むことが好きなのかもしれない。わたし自身の感覚として、飲みの席の空間というのはとても異質なものに感じている。家でビールを飲めば安価で楽しむことができるのに、居酒屋で飲めば倍以上のコストが発生する。もちろん、それは店舗運営に必要なお金の一部分が生ビールジョッキに乗っかかっているだけなのだけど、それでもたまにイエノミなんかをした時には、その安さに対してある種の絶望を抱くことがある。一時は、高いお金を支払っているのが馬鹿らしいと思っていた時期もあった。しかし、現在となっては全然そんなこと思わない。妥当オブ妥当、寧ろ安すぎるぐらいのお店がたくさんある。わたしがビールを注文すれば、それはそれは微力ながらもお店に潤いが行き渡る。ハイボールを飲めば飲むほど、お店にお金が流れていく。わたしのお金が部分的に含まれたその売り上げから、スタッフに給与が支払われる。わたしがお酒や料理を注文することで、お店の存続に加担している。その感覚が好きだった。自分も店の一部分なのだと考えたとき、やはり良い客でありたいと思う。良い客であれば、良い接客をしていただける。接客する側も、される側も、両者心が満たされて、気持ちよくお店が回っていく。そんな客が増えれば店が潰れることはないだろうし、この世の中に”また行きたい”と思える場所があることは、かけがえのない安心感を得ることでもある。家で一人お酒を啜っているだけでは、この感覚を味わうことはできない。だからわたしは、居酒屋が、BARが、大好きなのだ。

 

 

 とは言いつつも、ネットフリックスで映画鑑賞することも、思い立ったその瞬間から読み始められる電子書籍も、家での破滅的一人飲みも、日常の一部分として存在している。最早それだけで生きていける現代ではあるけれど、ちょっとしたお金の流れを意識するだけで、世界の見え方が変わることがありますよね。っていう、そんなお話しでした。