[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0577 普通の枠組み

 

「普通はこうするよね」

「こう考えるのが普通だよね」

 

 普通ってなんなんだろうかと思う。意識してみると、色んな場面で「普通」という言葉が使用されているけれど、それって単なる主観じゃないのかと感じる部分が大いにある。多数派であることが「普通」と形容されるのかもしれない、一般常識として考える時に「普通」と表現されるのかもしれない。その結果、少数派や非常識が「普通ではない」判断を下されて、壁の外へと追いやられる。声の大きいものがいかにも「普通」っぽさを纏うのかもしれないけど、五月蠅いな、その声帯を掻っ切ってやりたい。

 

 普通に当てはまらなければらならないなんて、一体誰が決めたんだ。そもそも普通の枠組みが定まっている訳ではないのに、何となくの感覚で言葉を発している。「普通」の尺度で言葉を発する人が苦手だった。昔は単なる反抗期かしら、と薄々思っていたんだけど、年月を経てもその考えは変わらない。わたしの中に普通、なんて考えは存在しない。人それぞれ、十人十色、千差万別である。「多様性」という言葉が普通の壁をぶっ壊してくれるかと期待していたけど、人間の思考にこびりついた概念はそう簡単に流れ落ちてはくれない。それでも少しずつ、世界の流れが変わっているようには思えるのだけれど。

 

 時折、「誰に対しても偏見をもたないよね」と言っていただけることがある。特に意識して生きている訳ではないけれど、そう言われるとなんだか嬉しい。誰一人として同じ人間などいないのだから、人間の数だけ思考が存在している。そう考えると、正しさとか、普通とかいうものを捉えることが難しくなる。何故ならば、同じ人間は存在しないのだから。一卵性双生児であっても各々に個性が宿るように、街中の美人も、道端の酔っ払いも、落ち込んでいる同僚も、皆それぞれが異なる思考を持ち合わせている。やっぱりわたしも人間なので、「あぁ、この人好きだな」「ちょっと苦手かもな」という感情はあるけれど、それでも対人を否定することはしたくなかった。好きなら肯定すればいいし、苦手なら無視しておけばよろしい。人それぞれの正しさがあって、人それぞれ大切なものがある。相手の正しさを自分の正しさで上塗りしようとするから、争いが生じる。各々が尊重し合えれば、ただそれだけでよかった世界です。今よりももう少しだけ、相手の話しに耳を傾けることが出来たのなら。「普通」の枠組みから外された人達も、笑顔を浮かべられただろうか。

 

 

 唯一、普通の尺度で物を語る人間にのみ、わたしは偏見を抱いているかもしれない。