[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0424 ミラーニューロン

 

 どれだけ行いが善い人であっても、ふとした瞬間に罪の芽が垣間見えることがある。人間の誰しもが善人ではない、なんてことわかってる。完璧など有り得ないのだ。そうわかっていても、その瞬間には驚きを隠すことが難しい。例えば、困っている人がいるのに見ないフリ。例えば、ゴミのポイ捨て。例えば、汚してしまった部分をそのまま放置。「え、マジ?」という瞬間に出くわした時、相手の人間性に一瞬疑問を抱いてしまうのだけれど、よくよく考えれば、それ以外の部分はほぼほぼ完璧に近しいのだった。

 

 これは自分の尺度で物事を考えているだけなのかもしれない。「困っている人がいれば声をかける」「ゴミはゴミ箱に捨てる」「汚してしまった時は掃除する」という自分の中にある信念を相手にぶつけているだけなのかもしれない。結局のところ、人は自分ベースの色彩が濃く反映されている。自分だったらこうする、を相手に当てはめて勝手に絶望している。それを罪と評価している。これって身勝手なのではないかしら。そんなことを最近考えていました。

 

 法には触れていないギリギリの範囲での罪は他にもたくさん存在している。「道徳的」という枠組みで考えた時に、そこから微妙にはみ出た行動がそれに当てはまることが多い。だからといって誰かから裁かれる訳でもないし、本人はなんとも思っていなかったりするから難しい。罪悪感がないこと、自然体な無邪気が一番向き合いにくいんである。前述したように、身勝手な自分ベースで物事を判断しているだけなのかもしれない。こんなこと書いているけど、わたしもなにかしら罪の芽をばら撒いているかもしれなくて、しかもそれは無意識で。そう考えると「それは止めた方がいい」と注意してくれる人の存在は本当に有難い。自分自身で行動の過ちに気がつくこと、案外難しいものなのだ。

 

 以前ならばそういった瞬間に出くわした時、「それはどうかと思うよ」とか伝えていたんだけど、最近は何も声をかけなくなってしまった。たった一言で相手を変えることは難しい。言われた相手も嫌になることが多いと思う。その代わり、出来るだけ行動で示すようにしている。というか、そう在りたいと考えている。困っている人がいれば自分が声をかければいい。目の前でポイ捨てをしたならば自分がそれを拾ってゴミ箱まで運ぶ。汚れが放置されたままであったなら自分が綺麗にすればよろしい。言葉で事細かに伝えるよりも、自身の行動で示した方が響きやすいと思うのです。これは大人でも子供でも同じです。実際にそうするようになってから、少しずつ周辺が変わってきたような気がする。ふんぞり返りながら綺麗事ばかりを並べ立てる社長よりも、朝一番に来て会社を綺麗に掃除する社長の方が、説得力も人望もその何もかもを獲得している。自分が行動することではじめて、人の心を動かすことができる。少なくとも、わたしはその考えを信じていたいのです。