[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0683 Merry Christmas Mr. Lawrence

 

 いつも通り、一曲の音楽をリピートしながら文章を書いている。毛布を羽織りながら机に向かう中で、一つのことに気が付いた。

 

「Merry Christmas Mr. Lawrence / 坂本龍一」

 

 そうか、今日はクリスマスなのだ。一年を通して同じ曲が流れているから違和感がなかったけれど、正しく今日にふさわしい一曲だった。なんとなく、不思議な感覚に身を包まれたまま、筆を進めていく次第です。

 

 大人になるとサンタはこなくなるらしいのだけど、それって一体どうしてなのだろうか。サンタさんは見るからに大人の風貌をしているけれど、実際は何歳ぐらいなのだろうか。豊富に蓄えられた髭と白髪から察するに、日本で言えば還暦は迎えていそうなものだけど、だとすれば体力が凄まじ過ぎると尊敬してしまう。

 

 なんて馬鹿げたことを考えている明け方五時。大人のみなさん、サンタはいらっしゃいましたか? プレゼントをいただけた人も、いただけなかった人も、みんな今日を生きている大人です。わたしの元にサンタは現れませんでした。きっと、求めていなかったからだろうと思います。「こなくていいよ、その分を他の頑張っている大人に渡してあげてね」心のなかに住んでいる子供が、今年はそんな大人びた物言いをしていました。ちょっぴり生意気で、けれども成長を感じられるような、心の在り方。

 

 サンタに懇願してまで欲しいものが思いつかないし、例えばブランドのバッグやアクセサリーをいただいたとしても、最早心が躍ることはないと思う。そもそも、サンタとブランドは最も相性が悪いように感じます。それこそ子どもの頃は欲しいものが溢れていたけれど、年齢を重ねるにつれて欲望が極めて薄まった。どちらかといえば、わたしはサンタになりたい。サンタ側でありたいと考えています。

 

 渡される側よりも、渡す側の存在。身近な大人にささやかなプレゼントを手渡したい。生きているとすれば、数十年後には更に物欲が薄れているだろうから、そうなれば最早サンタと同じ心境に達する。子供の喜ぶ顔がみたい、なんて気持ちになっているのだろうか。現在でも小さい子にプレゼント渡したい症候群なのに、初老の己自身を想像すると恐ろしい。ピアスは開いたままなのだろうか、タトゥーは入っているのだろうか。美しいおじいちゃんを思い浮かべながら、未来の自分自身に期待を抱く。

 

 自分の心を充分に満たしながら、溢れた分で誰かにプレゼントを手渡したい。誰かになにかを渡すためには、もちろんお金が必用である。その為に必死こいてお金を稼ぐ、働きまくるという訳ではないけれど、それも一つの目的として悪くないんではないか。自分一人の為だけに生きるには、人間はあまりにも無力だ。自分ひとりだけ幸せになっても、他者との接触が皆無であれば、それはあまりにも虚しい現実。だから、残った心の余力を大切な誰かに手渡したい。有形無形問わず、わたしはわたしのやり方で、頑張っている大人のことを労いたい。その弱く逞しい背中を、ゆっくり優しくさすってあげたい。