[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0343 あまりにもかがやき、現実

 

 まわりを見渡してみると、あまりにも面白いものばかりだ現実。それを上回るかのような魅力的な電脳世界、お洒落シャレしゃれ、インフルエンサー、炎上、精神は沈下。みなさん目の前にはなにがありますか? いまわたしは銭湯にいて、大体皆さん風呂上がりで、勿論わたしも風呂上がり。目の前には綺麗なジュースを飲んでる人、この後どうするか語り合う恋人たち、炭酸水シュワシュワなわたし。同じ空間にいる他人がそれぞれ違うことしながらくつろいでおる。なんかこの感じええな、そして突如噴き出す既視感。それはいわゆる家族のかたち。わたしの中にある理想像。同じ家に住んでいて、たとえばみんなリビングにいたりして、お母さんは料理して、お父さんはテレビ見て、娘息子はスマホに釘付け。みんなちがうことして、それなのに絆みたいなもの薄っすらと見える。いまこの瞬間同じ場所に居合わせたわたしたちにも絆、あるのかな。ほっそいほっそい薄ぺらい絆、あるんかな。ある訳ないよな、アホかわたしは。

 

 世界がかがやいて見えるときがあって、どうせその後どんより雲行き怪しくなるのだけど、それでももの凄く世界がかがやいて見える瞬間がある。それはわたしにとって直視できないような希望、現実の延長に存在する未来のかたち。どうしようもなく高揚感、ワックワクしてくる。たまらず踊り出したくなるこの衝動、いまだ人類に名付け親はいない。人間のあたまの中で想像できることは、そのほとんどが実現可能なことらしいのだ。なんかの本で読んだ、その一文だけが強烈に焼き付いている。それってつまり、なりたい自分になれるということだ。酒池肉林を想像する人は酒池肉林を、幸せな家庭を想像する人はハッピーファミリーを、会社辞めてフリーランス目指す人はノマド人生を、それぞれのかたちで実現可能ということだ。過去ではSFでしかなかった空飛ぶ車でさえも、もはやほとんど完成に近づいているのだから、わたしたちがなりたいと思うその姿なんて楽勝で実現可能だろう。そういうこと考えてると、自分でも驚くほどに高ぶる心拍数、なんだこれ、楽しくなってきちゃう。踊。

 

 現実にイメージを具現化するには、それ相応の行動が必要なんだけども。そりゃそうだ、地球は行動の星とやら、動かねばなんも変わらんね。毎日動けてるかな、少しずつ世界変えられてるかな、それって自分にしかわからなくて、考えれば考えるほど「改善の余地あり…」なんて落ち込むのだった。人間ってのは理想と現実とのギャップを痛感した時に大きなストレスが発生するらしいのだけど、なりたい姿に近づくためには毎日少しずつでも落差をチリチリ埋めていくしかないのだ。チリも積もれば山となる、やがてストレスは底をつく。よしよしこの理論で人生を突破しよう。嘆きに嘆き続けた、腑抜けた高音を叫ぶチキン人形のようだった2023年。まだ年が明けて間もないけれど、今年の自分はこれまでとはなんか違う気がする。毎日ブログ書くようになって、自覚できるほどに文体が変化して(賛否両論あるのかしら)、他にも人生の変化を感じることたくさん起きてる。「今年こそはほんまに変わるで、世界」心の中の関西弁が意気揚揚と吠えたくっている。なんかすごい、なんかすごいな現実。この数年間で一生分の「死にたい」使い果たした気がするから、今後はそれとは異なるかたちでも表現を続けたい。たぶん、どこまでいっても死生観、根本にあるものは変わらないけど、理想の形を叶えるために、この現実のなかを生きていく。

 

 そんなこと考えながらも、いつもと変わらぬ晩御飯。