[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0344 論破はなにも生まないけれど

 

 憎しみ以外はなにも。

 

 みんな自分が正しいと思ってる、各々の正義がそこにはあって、だから世の中から戦争はなくならない。なんて言葉が印象に残っていてポンッと飛び出た午後模様。完全に他人、それでいて同じ人間とは思えないような人がたまにいる。違う種族、いくら視点を変えようともこの人とは分かり合えないだろうなって人。そんなとき、その場を立ち去ることが最善だけれど、もう色んな条件が重なって同じ空間から逃げられない状況ってありますよね。そうなったならば仕方がない、相手はそこにいるのだから仕方がない。意識が向くことも、言動全てが癇に障ることも、ぜんぶぜんぶ仕方がなかった。そこにあるものをないかのように扱うの、結構複雑に神経を酷使するから、それならばいっそ意識的に相手に照準を合わせてみる。一体、この人の正義はどんな形をしているのだろう? 限りなく理解は難しいかもしれないけれど、いかほどの正義を以てこんなに横柄な態度言葉表情を浮かべることができるのか。気になる、ただ純粋な気持ちがソワソワする。たぶん、めっちゃ視野狭いんだろうな。いけないいけない、私論を入り混ぜては真実が見えてこないではないか。ジッと観察する、ノンバーバル、些細な癖、言葉選び、呼吸の速度、嗚呼なるほど、やっぱりどうしてもこの人とは正義が食い違っておるのだきっと。そうこうしているうちに時間は過ぎ去り、無事もう会うことがないであろう他人同士に早変わり。安心。

 

 マウンティングが生きがいです、と言わんばかりの人間もいる。その哀れな唇で自分の優位性を示さなければ気が済まないのだろうか。それで心のどの部分が満たされるというの、本当にその空白がわからない。「すごい」「すごいね!」って言ってあげると嬉々としてぼろぼろボロが出る。こういう人のこと、昔ファミレスのおもちゃコーナーで売ってたタンバリンを持ったお猿さん人形みたいだなと思う。血眼でタンバリン叩いちゃって、ほら、こんなにもすごいんだぜ!って騒いでる。面白ろ。理解はできないけれど、こういう人のことわたし嫌いじゃない。BARとかによく生息してる、そういう人にマウンティングされるの、わたしそこまで不快に思わない。誰がどれほどまでに素敵で「すごい」だったとしても、だからといってわたしがすごくないことにはならなくて、自分のすごいと思う部分、割と心に秘めてたりするから、みんな勝手にすごくなっちゃえばいい。誰がすごかろうとすごくなかろうと、世界のなかではちっぽけなことで、そんなことマジで本当にどうでもいい。わざわざ言葉を用いてその優位性を示すこと、それに対して理解は追いつかないけれど、だからといって話しの腰を折ったりしようとは思わない。言いたけりゃ勝手に言ってろ、でもね、人っていうのは結局は行動がすべてだから、言葉で価値を語れば語るほど、その輝きは光を失ってしまうよ。

 

 論破、某ひろゆき氏を筆頭にここ数年よく見かけるようになった言葉。Googleで調べると「議論して相手の説を破ること。言い負かすこと」と表示されている。論理的に(相手を)破壊すること、と思ってた恥ずかしや。某氏の真似をして論破したがる人増えましたよね、って勝手に思ってるんだけど別に現実はそんなことない? 個人的に思うのは、言葉で相手をぶち破っても、そこにはなんも生まれんということです。ぐぬぬ憎しみ覚えてろ復讐......が精一杯なんじゃないか。議論に勝ち負けを組み込む必要あるんかいな、それぞれの意見を出し合って、折衷案というか納得できる段階まで解釈を落とし込めばそれでいいやんか。相手を打ち負かしたときの優越感ってなんか悲しい。それならボコボコに殴られてる方がマシやわと思いかけたけど、それはそれで痛いし不快。やっぱり一番は「ほな、そういうことで!」とその場を後にすることだった。時として意見っていうのは食い違いの様相を示すもので、ヒートアップしてくると論破の予感が漂ってくる。「わたしはこう思う!あなたはそういう考えなのね!」あくまで自分の考えを伝えた段階で、もうそれ以上は静かにしっとり口を噤む。沈黙、相手の意見にひたすら耳を傾ける。鎮火作業、これにて一見落着。別に勝つとか負けるとかどうでもいいの、相手の話しに耳を傾けられなくなった時、人間はどこか見えない部分が崩れているから、わたしはずっと人間を保っていたいの。ただそれだけなのだった。だからわたし、論破って言葉に対してちょっとしたアレルギー。世のひとよ、もっと平和にいきましょうよ。人生なんて間違いだらけ、その一部分を突っついてへし折って俺ってすごいなんて思っちゃって、果たしてその優越は正気の香り? 言葉は人を癒す薬にもなるし傷を増やす刃物にもなる。傷ついた心に膜を張る、優しい薬が欲しいのよ。