[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0490 寄り添い

 

 たとえば、誰かに「頼むから生きておくれ」と懇願されたとする。「もうまったく、しょうがないなぁ」なんて言いながら、わたしの顔は引き攣っているだろう。そんなやり取りを妄想する。非現実的であることが救いであった。健やかな生を願うことはあっても、誰かの生を懇願することはない。これと同じように、誰かに生を懇願されることもなかった。

 

「あなたが生きていてくれると嬉しい」という表現と、「生きてくださいお願いします」というスタンスは、似て非なるものである。大きな違いは強要の有無で、前者は生き方に寄り添ってくれている感じがあり、後者からは切羽詰まるエゴが感じられる。そもそもの話し、これは個人的な感覚なのだけど、「○○してくれると嬉しい」という表現が好きなのです。相手から言われると率先して動きたくなるし、柔らかい感じがするから自分もよく使っている。「〇〇してください」って言葉は一種の強要であり、同時に若干の命令っぽさも感じる。「○○しなさい」よりは幾分マシに思えるけれど、それでもちょっぴり、反発心が働くのであった。わたしのような捻くれ者には、特に。

 

 公共施設等のトイレを利用する時、「いつも綺麗にご利用いただきありがとうございます」という一文を見たことがないでしょうか? あの一文には、人間の行動心理を巧みに利用する仕組みが働いているらしい。読み手側に「綺麗にトイレを使う利用者」を意識させている。なんもしてないのにお礼なんて言われてしまうと、最早綺麗に使わざるを得なくなる。これが「トイレは綺麗に使ってください」だったとしたら、なんかちょっと気持ちがモヤモヤするんである。「そんなん言われんでもわかってるわ」なんて反発心、人間は素直に命令を受け容れることが難しいみたいだ。やっぱり言葉というのは使い方が重要で、伝え方、表現方法次第でこんなにも人の気持ちが変わってくるのだ。

 

 だからわたしは大切な人に、「生まれてきてくれてありがとう」と伝えている。「生きていてくれて」では伝えきれないこの想い、最早誕生したことに対して感謝する。あなたは生まれただけで大正解、生きていてくれるだけでわたしは嬉しい。そんな想いが込められている。「生まれたのだから、立派に生きなさい」では気持ちは寸分も伝わらないだろう。そもそも立派に生きなくてもいいし、無理に生きようとしなくてもいいのだ。

 

 時折、こんなことを考える。大切な人から「死にたい」と言われた時、一体わたしはどうするのか? 真っ先に「わたしに伝えてくれてありがとう」と言うだろう。その後に、「無理して生きなくてもいいよ。急いで死のうとしなくてもいい」ってことを伝えたい。目の前に死を願っている人間がいる時、「そんなこと言っちゃダメ!」とか「死ぬのはいけない、生きなさい」なんて無情な言葉は発せないだろう。そういうことを言われてしまうと、本当に痛いのだ。自殺願望やこの苦しみを、どうせ否定されるだろうと思い、誰にも話せなくなることはいとも簡単に起こり得る。大切な人にそんな想いをしてほしくはないのだ、これはわたしのエゴなのかもしれない。それでも、勇気を振り絞って話してくれてありがとう。あなたはそんなことを考えていたんだね。そんな優しさで寄り添うことができれば。これはわたしがされたかったことでもあるのです。

 

 

 そんな日は、夜通し酒を酌み交わして、フラフラの二日酔いで翌日を迎えたい。仕事なんか休んじゃって、馬鹿みたいな自分たちを笑っていたい。生きること、死ぬこと、それは単なる生命の循環で、これといった重要性なんて無かったこと。そのことを改めて二人で思い出したい。ただ、死んでしまえばこうやって二人で馬鹿なことできなくなる、生きていればどこまでだって馬鹿になれる。いまはただ、深くゆっくりと眠りたい。

 

「あなたが生きていてくれると嬉しいよ」