[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0497 ただ一つの願い

 

 精神病に関する動画ばかりをYOUTUBEのアルゴリズムがおススメしてくる。ちょびっと検索しただけなのに、他にもこんな病気がありますよって。別に教えてくれなくていいんだけど、とは思いつつも、表示されたサムネイルを何となくクリックしてしまうのが人間の性で、こういう時に脳をハックされている感覚が全身に走る。疲れていれば疲れているほどに、おススメされた動画をタップしてしまう。ただ意味もなく時間を消費するみたいに、己の意志など何処かへ消えてしまったかのように。

 

 色んな人の様々な症例を眺めていると、「自分だけじゃなかったんだな」とか、「あの人はこういう感覚なのかしら」とか、何かしらのことを思うわけです。会ったことがない方たちだから、共感性や理解の念を抱くことはほとんどないのだけれど、やっぱり当事者はものすごく苦しそうである。それなのにインタビュアーの質問には笑顔で応えていて、そこは純粋にすごいと思った。どれほどまでに苦しくても、笑うことは出来るのだ。わたしも見習わなければいけないね。無理して笑おうとしなくてもいいけど、笑うことを意識することは誰にだって可能だと思う。アホみたいなことして、馬鹿みたいに笑ってる。最近はそんな生き方を心掛けるようになりました。

 

 動画の登場人物が特別なわけではなく、ましてやわたし自身も特別なんてものではなかった。十人十色、多種多様、個人によって彩りが異なっている。人には人の歪みがある、理解され辛い特性が内外に存在している。非難されることもあるかもしれないけれど、その特性を好きだと感じる人もいる。美しいと言ってくれる人がいる。たった一人の、些細な一言ですべてが救われる瞬間がある。やはり人間は理解されたい生き物なんだろう。わたしはたくさんの言葉に救われて、なんとか今日を生きている。寿命とやらに生かされている。死にたいと思うことは、それ即ち生きている証拠なのである。達成した後には願望が消滅するように、生の中でのみ死を願うことができる。アップダウンするわたしの希死念慮、それこそが今日を生きている証なのであった。公園ではしゃぐ子供たち、食卓から漏れ出る夕飯の香り、手を繋ぎ歩く老夫婦、帰宅途中の通勤電車。どのタイミングで湧き出る死の感触も、わたしの彩りを表しているだけに過ぎなかった。人は憂鬱のなかでも笑える生き物だ。もう全部投げ出してしまっても構わない、死するその瞬間までは笑っていたい。たとえそれが、作り笑いなのだとしても。