[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0496 雨と観測

 

 窓の外で降る一つ一つの雨粒を想いながら、打ち付けられる音を聴いている。どうしてこんなにも自然は美しいのだろう。それと同じぐらい、どうして自然は恐ろしいのだろう。時として現象は残酷だ、いとも簡単に人の命を奪ってゆく。それさえも生命としての定めなのだとすれば、わたしたちは自然に生かされていて、日常そのものが自然の一部分に過ぎないのかもしれない。

 

 こんな日は、カフェでのんびりコーヒーを飲みたくなる。なにも考えないで、過ぎ行く人たちのことを眺めていたい。ずっと痛かった心が雨に洗われるようで嬉しい、仕事休んじゃおうかな、なんて言いながら揺られる満員電車。心が落ち着く、わたしはとっても落ち着いている。過ぎ去った者が頭に浮かぶ、これから訪れる未来に胸が躍る。どこまで行っても、結局は人のことばかり考えている。大きな水たまりに映った自分の姿は、なんだか久しぶりに出会った気がした。波打つ水面、不確定な自分自身、揺れる、揺れる。

 

 気が付けば六月が呼吸を止めようとしていて、時の流れの素早さを思い知る。この一か月、自分がどのように過ごし生きてきたのか、一体全体わからなかった。なんにもしてなかったんじゃなかろうか、と思う程に変わらない日常がおぞましい。かろうじて書いているこのブログも、自分を保つための手段として活用していた。書くことさえやめてしまったら、己の解像度が下がるばかりでなんにも見えなくなってしまう。書く事が楽しいと思える自分でよかった、せめてもの楽観としてそのように思う。きっとこんな感じで一年が死んでいく、その中であなたは、そしてわたしは、なにを想いながら日々を過ごしているのでしょう。苦しんで、笑って、時には泣いたりして。現在のわたしはちょっぴり人生を見失っていて、右も左も前も後ろも無い状態です。どこへだって行けるという選択肢の多さに疲弊して、最早どこへ行きたいのかがわからない。愛されたいのか、愛したいのか、、それすらもわからないでいる。でも、いまはきっとこれが正解だった。虚無のなかを彷徨う事、それもまた悪くないのかもしれないね。地図を失って自分がどこにいるのかわからなくなった時には、決して抗うことをせず、少し高いところから見渡してみればいい。きっとそこには広大な景色が広がっていて、降る雨が大きなカーテンとなっている。美しいね。