[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0467 鏡合わせ

 

 人は何が出来るかで判断されがちだけど、出来ることが少ないからこそ与えられるものってあるんじゃないか。そんなことを渦の中で考えていた。

 

 たとえば、年収一千万円の人間がいたとして、これは高収入の部類でいわゆる「すごい」だったり「稼ぐ力」を賞賛されるかもしれないけれど、年収二千万円の人からすれば「ふぅん」程度の鼻息かもしれなくて、年収一億円の人から見た時には「そっか」程度の溜息かもしれない。けれども、年収百万円の人からすれば尊敬の眼差しが注がれる可能性があって、無職の人からすれば最早違う世界の人間である。それ以上のものを有している人からすれば「すごい」の対象には入らないけれど、それを持っていない、達成していない人からすればそれはマジで「すごい」になるんです。これって、すごくないですか? だからといって、何でもできるようになってイキり倒しなさい、ということではなくて、寧ろ今回の考え方はその真逆。最早わたしたち、なんにも出来なくていいのである。

 

 わたしはよく不器用とかそんなことを言われるんだけど、強迫観念の影響もあってか出来ないことが結構ある。昔出来ていたことが出来なくなって、出来なかったことは出来ないままで。割とそんな感じではある。それでも全然生きていて、何ら問題なく日々を送っている。わたしにとって最たる例は「料理」であって(これは出来ないというよりもしたくないから取り組まないだけなんだけど)、料理が出来る人、無条件で尊敬なのだった。料理上手な人から聞いた話しによると、「自分が思い描いたものを食材を使って具現化することが出来る」とのこと。なにそれ、魔術師じゃん。めっちゃカッコイイわ。そのレベルまでいかなくても、レシピを見れば何となく作れるでしょう? といった方が非常に多く見受けられる。わからん、当方レシピを見てもなにが何だかわからんのだ。分量とかはテキトーでいいよ、って出来る人は言うけれど、テキトーの適当が全くもってわからんのだ。と、こんな具合で料理への取り組みを放棄して生きているわたしにとって、ちょっとでも何か料理できる人は「ほんまにすごい」になるんである。

 

 料理だけに限らず、感動したことは相手に伝えるようにしている。美味しかったら「美味しい」と、嬉しかったら「嬉しい」と、尊敬の念を抱いたら「すごい」と伝える。わたしにとって手料理とは、「美味しい」「嬉しい」「すごい」「幸せ」「最高」「すごい」「すごい」のオンパレード、箱詰めギュウギュウのパラダイスなのだ。自分の為にお作りいただけることが奇跡みたいなものなのに、食欲までも満たしてくれる。正に言葉通り身も心も満たされている。作り手からしてみると、「美味しそうに食べている姿を見るのが快感」と皆さん口を揃えている。全然その気持ちはわからんけれど、こちらが出来るのは、想いを言葉にすることが精一杯。そして不思議なことに、料理最高!手料理最高!とか何とか言ってると、定期的に優しい人がご飯を作ってくれたりする。とんだ幸せ者である、ありがとうございます世界。

 

 少し話が脱線したけれど、要するに何かが出来なければ、出来る人が尊敬の対象になり得るということです。料理が出来なければ、料理上手な人が。掃除が出来なければ、整理整頓が上手な人が。仕事ができなければ、必殺仕事人が。出来る人すべてが尊敬、って訳ではないけれど、やっぱり根幹にあるのは「すごいなぁ」という気持ちではある。よっぽど性格が合わなかったり、傲慢だったりしない限りは、尊敬。わたしはメンタルヘルスが不安定なので、メンタル強めな方を目の前にするとマジですごい!ってなるし、自然とその気持ちを伝えている。そうすると、日々どんなことを意識しながら生きてるとか、それでもやっぱり潰れそうになる瞬間はあるよとか、色々教えてくれる(ここでマウントを取ってくるような輩とは見切りを付けてサヨウナラ)。そこから会話が広がって、ふたりの世界が構築される。

 

 こんな具合に、出来ないからこそ出来ることがあると思うんです。それはたった一つ、言葉を尽くすこと。「あなたは本当にすごいんだよ」って伝えられること、これは出来ないからこその特権である。だからもう、あれもこれもと手を出すことは止めにした。器用であることは素晴らしいことだけど、不器用であることにも一味違った利点がある。そう考えると、別に出来ないことは出来ないままで、気楽に生きていてもいいんだなって。自分の得意なこと、楽しいこと、大好きなことに、時間とお金を費やしていけばよろしい。人生って、どこまでもシンプルだった。言葉にして伝える、もうそれだけのことで良かったんだよな。