[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0148 細々とした死

 

 「人は二度死ぬ」

 

 一度目は肉体が滅びた時、二度目は皆の記憶から消えた時。

 

 本当に二度だけなんだろうかと疑問に思う。肉体が滅びる前、即ち何ら問題なく生命活動を行えている時でさえ、日々細やかな死と対面している。駅の改札で通勤定期を忘れたことに気付いた時、「あっ、死んだ」と思う。洗濯を怠って着ていく服が無い時も、コーヒー豆を床にばら撒いた時も、好きな人に気持ち悪いと言われた時も、少しだけ心が死んでしまう。

 

 寿命という観点から視れば、わたし達は日々少しずつ死に向かって歩いている。ただ寝転がって何もしないまま過ごしても着々と寿命は削られているから、歩いているというよりはベルトコンベヤーで運ばれている、といった表現が正しいかもしれない。自らハイスピードで死へ直行することも出来るし、逆走すれば少しだけ寿命に抗うことも可能だ。それでも、どれだけ足搔いてもいつかはゴール地点へ辿り着く。

 

 運ばれている最中にも、細々とした”死”から四方を囲まれ襲われる。それが絶望になるかもしれないし、苦しみとして作用するかもしれない。心が死んでしまったとしても、肉体が残存していれば時間経過と共に生き返ることが可能。だから何度でも小さな死が繰り返されてしまう。時として、大きな傷を負って呼吸が出来なくなった場合に生き返れないこともあるかもしれない。そんな状態でも周囲からは「生きている」人間として蔑ろに扱われる。そのことがとても悲しい。

 

 心の死を完全に可視化することが難しいから、他人に理解されないとわかっているから、わたし達は多少苦しくても生きている振りをする。フリをして会社に行くし、フリをして友人に会ったり、デートをしたりする。それが当たり前のことなんだと自分に言い聞かせて、生を謳歌している様に錯覚している。心が沈んでいる仮死状態の時に「わたし、いま死んでます」とハッキリ提示することが出来ればどれほど楽になれるだろうか。どれほどまでに解放されたと感じるだろうか。

 

 皮膚に食い込んだ足枷が外れれば、草原をスキップで駆け回りたい。”わたし今、大きな自由を肌身で感じてる”。そう思った次の瞬間、脳天をスナイパーライフルで貫かれる。肉片が周囲に飛び散り、草花が赤く染まる。「また死んでしまったな」反省しているのはもちろん私。気を抜くとすぐに死んでしまう。どうせまた死んでしまうのなら、もう生き返りたくないなと思う。死ぬ為に生き返るの?生きる為に死が必要なの?結局わたしは何をどうして生きていけばいいの。

 

 

 人間は不思議な生き物で、心が死を経験すればするほどに強くなる性質を持っている。強い衝撃で心が破壊されてしまっても、そこから生き返れた時には以前より少しばかり頑強になっている。あまりにも複雑な経験をされた方だと、多少の衝撃ではビクともしないようになる。こうなることが出来れば幾らか楽に生きられるのだろうけど、そこに至るまでにどれほどの絶望を経験しなければならないのか。心の強度は遺伝的要因が多いに関係しているから、下手に他人を参考にするべきではない。

 

 別に強くならなくてもいい、弱いからこそ輝く部分がある。強い人にしか出来ないことは、本当に心が強い人達に任せておけばいい。わたし達は、自分にしか出来ないことに集中するべきだ。いつだって、わたし達は自由。その中で幾度となく傷を負い、何度も何度も死を経験する。時間がかかってもいい、それでも立ち上がることを諦めないで。立っていることが辛いのなら、壁に凭れかかっても構わない。その壁すら見つからないなら、わたしが肩を貸してあげる。そして少しずつ、本当の死へと歩みを進めよう。与えられた寿命に従おう。その過程で銃弾が心臓を貫いた時には、一緒に死を味わおう。ゆっくりと、早く流れる時の中で。

 

 

 少なくとも人は三度死ぬ。

 

 一度目は、心が壊れた時

 

 二度目は、肉体が滅びた時

 

 三度目は、あなたの記憶から消えた時