[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0427 どうかその時は一突きで

 

 知らず知らずのうちに誰かのことを傷つけていること、あるんだろうなと思う今日この頃。良かれと思ってやったことが全くよろしくなかったり、ふとした一言が刃物になってしまったり、相手を抉ったことに気づかないまま「じゃあね」と一言通り過ぎる。後からでも「わたしはあの時傷つきました」と言ってもらえれば自分の言動を改めることができるけど、わざわざそんなこと言わんのが人間ってやつで、大人という生き物で、それは中々子供も同じみたいで、言わないというよりも言えないのかもしれなくて、そういうことを深く思いつめてしまうと、言葉がなんとも恐ろしいものの様に思えてきて、最早なんにも言えなくなるのです。

 

「君はいつか刺されるから気を付けた方がいい」

 

 若かりし頃から今日までずっと、色んな方から言われ続けてきた。一応刺し傷が見当たらないのが現状で、現在なのであった。無意識のうちに”愛を模倣したなにか”を唇からポロっとこぼしているみたいで、例えばそれは相手の良いと思った部分を言葉にすることであったり、ポジティブな感情を伝えることであったりするみたい。「愛してる」だなんて言葉は使わないけれど、「愛してない」は使うかもしれない。全く思っていないことを言葉にすることはなくて、唇を伝う”それ”は全部本当に思っていることなのです。それでもやっぱり、何にも伝えない方がいいのかしら。意識的になんにも言わないようにしてみたことがあるんだけど、どうしてもぎこちないコミュニケーション。年齢性別問わず、相手の好きな部分を言葉にして届けたい。笑っている可愛らしい表情が見たい。それだけではいけないのだろうか。こういう考えが誰かを傷つけてしまうのだろうか。

 

 言葉は傷を増やす刃物にもなり、傷を癒す薬にもなる。ただ優しい薬で在り続けたいのだけれど、そう簡単にいかないのが世の常です。薬も用法容量を誤れば身体にとって毒となる、言葉というやつは絶妙なバランスで構成されているのだ。まだまだやっぱり人生初心者、今日も匙加減を模索している。この先どこかに存在する未来、わたしは刺されておりますか? その時が来たならば、これまで世の中にばら撒いてきた恨みつらみ、その報復をしっかりと受け入れたいと思っている。誰からも好かれることなんて不可能だけれど、誰からも嫌われることもこれまた不可能。それが刃物であれ、薬であれ、良くも悪くも言葉として伝えてきたからこそ、現在の交友関係がある。伝えなくていいこと、伝えない方がよかったこと、これまでにたくさんあった。思い返せば「あの時は」ばかりの後悔が頭に押し寄せて、いまならもう少し上手く立ち回れるのに、とは思うんだけど、その考えのどれもこれもが無意味であって、「あの時は」なんにもわからなかった。日々が過ぎ行く中で言葉の重要性を考えている。それでもわたしは想いを言葉にして伝えたい。そして、これから刺される方へ。傷をつけてしまってごめんなさい、謝って許されることではありません。だから思う存分刺していただければ幸いです。ただ一つだけお願いがあるとすれば、どうかその時は一突きで、お腹などではなく心臓を狙ってほしい。なんて話し、あまりにも都合が良過ぎますよね。そう簡単には殺してくれない。