[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0428 あまりにも適当なこの世界で

 

 神経質。幼い頃から言われてきた、これはただの性質、これはただの性格。なにかにおいて気になることが多いらしい。あらゆる部分に不足や欠如を見出している、これも一種の才能なのかもしれない。ただ、気になっているその瞬間は、とってもしんどいのだ。いつもよりずっしりとしている重力が思考の幅を狭めるようで、呼吸がスムーズに進まない。挙句の果てには気になること、それ自体を気にするようになる。みんなもっと大胆に生きてる。その他大勢と比較してちょっぴり落ち込み。いついかなる時も敏感になる神経が辛い。

 

 思うに、この世の中は恐ろしいほどに適当である。この場合、「適当」よりも「テキトー」と表現する方が正しい。兎にも角にも、右を向いても左を向いても、あらゆる場面あらゆる場所あらゆる部分で、テキトーなんである。みんなマジメに生きている感じを醸し出しているけれど、多くの人間がこれまたテキトー。この世の適当さ加減を考えるとき、頭のなかでは盆踊りを楽しむサラリーマンが想起される。愉快な音頭に合わせて、ちゃらんぽらんに踊るスーツ姿。シワだらけのシャツ、ネクタイを頭なんかに巻いちゃって、なんも考えずに踊ってる。わたしが思う世の姿って、大体こんな感じ。一応、ちゃんとスーツは着る。会社にも行く。けれども、やっぱり最後には盆踊りなんである。音頭が聞こえればその場でとりあえず踊ってしまう、そのぐらいがちょうどよい。

 

 一方わたしは、シワ一つない純白のシャツ、クリーニングに出したてのスーツ、「そうでなければならない」という思いこみ。愉快な音頭が聞こえてきても、聞こえぬふり見ないふりをしながら仕事を続ける。美しければ美しいほどに、綺麗であればあるほどに、少しの汚れが大きな汚れのように錯覚する。そのスーツを汚さないように、ずっと神経を尖らせている。与えられた仕事を完遂するために、ずっと机に向かい続けている。

 

 本当は踊りたいのに、仕事なんかサボってしまいたいのに、あぁどうして、こんなにも真面目なのでしょうか人間、わたし、現代人。神経を尖らせれば尖らせるほど、誰かを傷つける可能性が高くなる。もっと柔軟な脳みそが欲しいよ。馬鹿みたいに生きていたいよ。願うことはこんなにも簡単で、その通りに生きることはまるで不可能なように思えた。神経質であることは、当人も他人も、関わる全ての人を苦しめる。神経質だからこそ生み出せるものがあったり、特有の感性からアプローチを働きかけられることもある。それは事実であるけれど、心の許容量が狭くなっていることもこれまた事実。神経質を完全に排除することは難しいかもしれないけど、もう少しだけいい感じに解きほぐすことはできないだろうか。0か100かではなく、50ぐらいの中間地点を目指すことはできないものだろうか。「難しい」と言ってしまえばその何もかもが「難しさ」として体現する世界だから、根拠はなくても可能である気持ちを信じていたい。これからの課題は張り詰めた神経を解きほぐすことであって、頭のなかを柔和にすること。もうずっとピリピリしていることには疲れちゃった。ここらでそろそろ盆踊りでもいかがかしら? 綺麗なスーツなんか脱ぎ捨てて、やらなきゃいけない幻想はシュレッダーにかけちゃって、踊れ、踊れや、愉快に踊れ。