[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0489 ネガフィルム

 

 耳をすませば雀の鳴き声、彼らにも共通言語があるのだろうか。音色をかき乱すように人間の泣き声、今日もどこかでまた一人誰かが悲しんでいる。その姿を見せないように、一生懸命に自分を偽っている。わたしたちは翼を持たず、自由に飛び回ることが出来ない。だから、せめてもの想いで言葉を紡ぐ。誰にも響かない、聞き入れてもらえないかもしれないけれど、自分のために、その全てを言葉にする必要があったんだ。

 

 映画の主人公のように生きてみたいと思った。ストーリーは纏まっていないけど、いつだってハッピーエンドはつまらない。だからといって悲劇の味わいは残酷で、それに耐え得る為に一縷の望みが欲しかった。映画には始まりがあって、終わりがある。予め上映時間が決まっている。小説もそう、作品が完成した時点で頁数が揺らぐことはない。そう考えてみると、やっぱり物語と人生は似ていると感じる。わたしたちの人生は有限である、必ずどこかで終わりを迎える。それが数十年後かもしれないし、数年後かもしれない。もしかすると、それは今日なのかもしれなくて、上映時間=寿命は当人も含め誰にもわからないことである。完成された作品を引き伸ばすことは叶わないけれど、人生そのものをなんとか引き伸ばすことは可能なのかもしれない。医療の発達、効果的な栄養摂取、運動習慣、質の良い睡眠......etc。

 

「自殺をした人は、きっとその日までが寿命だったんだ」

 

 どこかで見た一文がいつまでもあたまの中に居座っている。死んだその日までが寿命であって、自らその寿命を短くしたのではない。自分の手で寿命を引き伸ばした訳でもない。きっと何もかもが上映時間として、予め定められていたことだった。だからもうなにかに執着することは手放してもいいし、日々の積み重ねで死に直行している自分自身に抗わなくていい。老いることが怖いと言う人もいれば、未来が楽しみという人もいる。死にたくないと願う者もいれば、まぁ別にいつ死んでも構わないとお気楽な者もいる。人間と同じ数だけ人生が存在していて、人によって上映時間は様々だ。これは個人的な感覚なのだけど、わたしはあまりにも長すぎる物語にはうんざりしてしまう。三時間とか、二時間半ぐらいの上映時間、内容てんこ盛り濃密ストーリで感情が疲弊してしまうのです。「長けりゃいいってもんじゃないぞ」とは思うのだけれど、一時間程度では物足りなさを感じる作品もある。結局重要なのは、内容なのだ。中身なのだ。例えば毎日が憂鬱で、このままズルズルと数十年生き続ける映像よりも、大きな爆発をもって明日尽き果てる人生の方が、作品としては面白味がある。わたしが物語に求めるのはテンポ感、刺激、リアリティである。いまの人生を映像作品として投影した時、マジでグダグダでテンポ感が皆無だな、と思った。そして、圧倒的に刺激が足りない。なにもかもが物足りないのだ。それならば、問題点を一つ一つ改善していくしかないでしょう。ウダウダ言ってないで行動する、刺激を求めて行動する、この人生こそがリアルである。わたしは映画の主人公になりたい。上映時間は短めで、テンポ良好、爆発的刺激、現実。

 

 

 主演、監督はわたし自身で間違いなかった。