[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0574 瞳が教えてくれたこと

 

 あらゆるものが眩しく感じる状態を羞明と呼ぶらしいのだけど、昨年からその症状が大きく現れた。なにも突然現れた訳ではなく、年数を経て徐々に眩しさが増していったように思う。検査をしても眼球自体に異常は発生しておらず、恐らく精神的なものが原因と考えられる。思い返せばこの数年、マジで滅茶苦茶な生活をしていたよなぁ。

 

 ろくに眠りもせず、酒ばかり飲んでは自分を傷つけて、あぁもういなくなりたいと思っていた。「もうそろそろやめときなさい」の危険信号として、光の感じ方に異常が現れたのかもしれない。9月に入ってからは、随分と生活が簡素になりました。起きて、書いて、働いて、運動して、食べて、読んで、寝る。時折、親しい人と一緒にご飯を食べる。お酒飲む。そんな感じで、もうあまりにも毎日が眠いものだから、睡眠を最優先する生活にシフトしつつある。死にたいと感じるなら、とりあえず寝なさい。幾重にも睡眠を積み重ねてごらん。個人的に、眠りのなかは最も死に近い場所だと感じていて、良くも悪くも安心に包まれる時間である。目が覚めれば再び生活が始まるけれど、たった数時間あれやこれやしている間に眠りの時間が再訪する。羞明はあまりよくならないけど(最近は悪化気味)、心の状態は少しずつ静寂を取り戻しつつある。

 

 朝はエネルギーに満ち溢れていて、夜になるとそのエネルギーは空っぽになっている。これは眼球も同じで、早朝にパソコンへ向かうことは苦ではないけれど、夜中にパソコンへ向かうことは大きな苦痛を伴う。単純に眼が痛い、”ムスカ”の三文字が頭に浮かぶ。仕事柄日中はパソコンを使うことが多い為、仕事が終わった後にスクリーンを眺める気力(眼力)がほとんど残っていない。この理由から文章は朝に書いている。ごくまれに夜に書く時があるんだけど、その時は眼球の悲鳴が鮮明に聞こえる。同様に、夜に映像作品を鑑賞することが難しくなった。夜中に映画を観られない、動画もできる限り見たくはない。外では基本的に夜もずっとサングラス、唯一行きつけのBARでのみ裸眼になれる(恐ろしいほどに店内が暗い)。朝の眩しさは日光が原因、これは目がキュウっと締め付けられる感覚で、首がものすごく痛くなる。夜の眩しさはLED、電光掲示板、車や自転車のヘッドライトが原因。これは何故か涙が止まらなくなる。サングラスをしていても尚、その場に長時間身を置けば涙ポロリである。

 

 自然(?)と夜の行動が制限されるようになった。自宅と行きつけのBARだけが安全地帯である。数年前は夜遅くまで遊んでいたけれど、今となっては良き思い出である。夜は眼球を休める時間、照明を落とした湯舟に浸かったり、ノートを書いたり、本を読んだりしていたい。つくづく読書が好きでよかったと感じる。紙の本は眼球を刺激しないから安心する。それでも今日がなんだか虚しくて、タブレットで動画を観たりする日もあるんだけど、うん、やっぱりわたしの身体には合っていないみたい。本当は映画も観たいところなんだけど、眼球がそれを良しとはしてくれない。休日の陽が昇っている間に映画を観る。これがささやかな楽しみ、あとは書物があればそれでいい。そして、たまに誰かと一緒にお酒を飲んで、ゆっくり話すことができたなら。最高だと思うんですよね、わたしの日常。