[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0584 誰かの鼓膜になりたくて

 

 生きていく上で、自分の話しを聞いてもらうことはとても大切。

 

 人間は自分の話しをしたい生き物です。会話術の本なんかでよく書かれてあることだけど、基本的に「人は相手の話しに興味が無い」とのこと。相手の話しを聞いているようにみえても、次は自分のどんな話しを繰り出そうかしら、なんてうわの空。コミュニケーションの基盤が会話で構築されるように、人は言語を通して己を知ってほしいと思っている。だからこそ、友好的になりたい人がいれば、その人の話しにしっかり耳を傾けてごらんなさい。適切なリアクションを織り交ぜながら、相手の想いをもっと引き出しなさい。ということが書かれてある場合が多い。要するに、もっと真剣に相手の話しを聞いて、反応して、引き出して、これまた反応しての繰り返し。相手の心の内を言葉として具現化させる。これだけである程度の会話は成立する。

 

 ずっと、相手のお話しを聞いていることが好きだった。自分は積極的に話さなくても、相手が楽しそうに話し続けてくれる。自分としてもそういう人と過ごす時間が楽に感じた。あの頃は自分のことを話すのが苦手であった。その代わりに、少年は文章を通して心の内を吐露していた。当時生み出した詩がいくつか残っているけど、少年は必死に生きていた。「全然自分の話しをしない」と言われるわたしでも、心の内に留めて置くことが苦しかった。自然と文章を書くようになったことが、不幸中の幸いであった。「辛いことあったら話し聞くよ」という優しい大人の声が有難かったけど、そういう人になにを話しても私は変わらなくて、挙句の果てにとんちんかんなアドバイスが飛んできたりした。その事実に落胆した。そうして静かに心の扉が閉じていった。

 

 今となっては素直にそう思えるけれど、わたしはただ話しを聞いてほしかったんだよな。「この人に聞いてもらいたい」と思える人に、自分のことを知ってほしかった。そうでもなければ、こうやって文章を書いていないだろうし、誰かと一緒に過ごそうとはしない。

 

 会話をする時は、相手に焦点を定めたいと思っている。静かに耳をすませば、鼓膜を通じて心の内が流れ込んでくる。その感覚が好き。会話に限って言えば、自分のことは二の次でいい。わたしは、あなたのお話しに集中していたいのです。世の中には自分のことを思うように話せなかったり、聞いてもらえなかったりして苦しむ人がいる。心の構造上、内側に溜め続けることは難しいんだ。だからこそ、わたしは言葉として受け取りたい。不器用でも構わない、誰かの鼓膜になることができれば。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。