[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.011 オーシャンパシフィックピース

 

「気が弱いとも、意志薄弱とも違う、彼は事なかれ主義なのだ。でも、事なかれ主義とは気が弱く意志薄弱な人の選ぶ道とも言えるのかもしれない。」

アンソーシャルディスタンス/金原ひとみ

 

 

 ごきげんよう、週休二日の生活にもようやく心身が適応してきました。日常的に他人と関わる時間が増えたこともあり、特に予定のない休日は少しさみしくも感じるようになりました。少し前までは人間が疎ましくてたまらなかった。ひとりきりでも構わないと思っていたし、それが心地良くも思っていた。けれど現在は違う。人間を求めている自分がここにいます。なんてワガママなんだろう、自分自身で呆れてしまう。しかし、不思議とそんな自分が嫌いではありません。母が子に対して抱く一種の諦念のような、ある種母性的な感情を自分自身に対して抱いています。駄目で不器用な自分が可愛らしくて仕方ない。これもナルシシズムとして揶揄されてしまうのでしょうか。ナルシストの自覚はありませんが自分を可愛がる能力には長けていると、密かながら誇らしげに思っています。

 

 いつ何時もご機嫌を保つ為には、感情を一定に保つ必要があると私は考えます。できる限り感情の振れ幅を小さくする。振れ幅が大きくなればなるほどに、自分自身が見えなくなります。下がることは勿論のこと、上がった状態が長く続くこともよろしくない。ポジティブでもネガティブでもない、ニュートラルな状態を保つ。こんなことを言うと港にあふれるビジネス書みたいで滑稽ですが、それでも私は声を上げたいのです。自分の好きを知ると同時に、嫌いも知らなければならない。寧ろ嫌いを知ることのほうが重要で、嫌いを知っていれば人生を歩む上で”嫌い”を避けて通ることが出来る。「選ばない」という選択肢が増える。何をするかよりも、何をしないかが重要です。しかし、何もしなければ動かないという人生の性質に、振り回され続けてもいます。

 

 今日のわたしは、何が書きたいのか全くわからない。支離滅裂、話に脈絡が無く申し訳ないでございます。とにかく書きたかった、気持ちを文字に起こしたかったんですね。知らず知らずの間に気がつかない程度の鬱憤が溜まっていたんだと思います。書くことでしか自己を表現することができない、甚だ厄介な性分に再び呆れてしまう。不器用の一言に限ります。寂しいくせに、こんな時は誰かと一緒に過ごす気分にもなれない。そんな訳で仕事以外の時間は一人で過ごすことが多くなりました。しかし一人というのは思っていた以上に暇を持て余す。結果、こうやってブログを始めたり、最近は動画を撮って友人へ送り付けることにハマっています。「思っていた以上にあの動画は評判が良い」といったことを動画を送り付けた内の一人に話したところ、「あんな動画を送れる友達が何人もいるの?」と怪訝なアンサーをいただきました。LINEでは5分以上の動画は分割して送信しないといけない為、分割作業自体が面倒になってきました。よってYOUTUBEでも始めてみようかと思うのですが、音楽の著作権にひっかかりそうでまだ実行できていません。メロウなバックミュージックは必須なので、それ無しでの動画投稿は考えられない。どなたか、YOUTUBE著作権に詳しい方がいらっしゃれば教えて下さい。ちなみに、当ブログでもいえることですが、有名になろうなんて気はこれっぽちもありません。私は身内だけでキャッキャと笑っていられれば、それで満足です。勿論、たくさんの方にご拝読いただけることは光栄ですが、わたしは現状に満足しているんです。

 

 人生を浪費している感覚が常に全身を覆っています。好きな言葉のひとつに「人生は死ぬまでの暇つぶし」というものがあります。死をゴールとするならば、私たちは日々ゴールに向かって進んでいる。どうせ死ぬまで続く暇つぶしなら、思いっきりぶっ飛んだことやりたくないですか?