[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0298 きっと、それでも大丈夫 

 

 大好きな知人が「お酒を飲んだ状態では何もできなくなるよなぁ。その状態で文章を書いたり出来る人ってどうなってるんだろう」ということを仰っていました。だからこそ、酒を飲みながらこの文章を書いています。書く時は基本シラフでやらせていただいているのだけれど、時々こういうことがやりたくなる。

 

 朝から「自殺 やり方」とか「希死念慮 対策」とGoogleの検索欄に打ち込むほどには、何故だろう人生に疲弊しているのだった。愚かだ。絶対に、もっともっと大変な方がいる。きっと自分は恵まれている。それでいても尚、冷静を保つことが難しい現実。いなくなりたい、いなくなりたい、どこかへ消えてしまいたい。突発的な衝動を止めることは難しく、それでも平然を装うわたしは、上辺だけの会話を、上辺だけの感情で、上辺だけの愛想笑いで、何とか今日をやり過ごした。

 

「ふと思ったけど、死にたい思わずに一生をおえる人もいるんだね」

 

 

 これは友人がくれた一言。たしかに、これは完全に盲点だった。そうだよな、間違いなくそうだと思う。お気楽に過ごす者もいれば、「生きたい」と願う者も必ずいるのだ。勿論、お気楽でいる努力、生きるための努力をされているのだと思う。それは本当に素晴らしいことで、わたしはただ眺めていることしか出来ないだろう。環境が人を変えるのだろうか? だとすれば、何とか死に近づこうとするわたしは、そういう人たちは、愚かで、阿呆で、虚しいだけの存在なのだろうか?。

 

 気が付いたときにはこうなっていて、周りには、誰もいなくなっていた。なんて、被害者意識はダイナマイトでぶち壊したい所存です。被害者面をするな、苦しむのなら、一人で、自分自身の中で、存分に苦しめばいい。堪えきれなくなった時には、一人で、それはひっそりと、いなくなってしまえばいい。だれにも、自分以外のだれにも、頼るな。「死にたい」と言われた人の気持ちを考えると、その一言目が発せなくなって、「あぁそうか、これが現実なのだ」と思い知らされる。

 

 どうして、自分だけには厳しく当たってしまうのだろう。どうして、いつまでもその縄から抜け出せないのだろう。わかっているのに、わかっているのに、どうしても、わたしはわたし自身を縛り続ける。どうすれば楽になれるのだろう、一体どうすれば、未来の中で笑えているのだろうか。そういうことを考えていると、結局は人生を終わらせることに辿り着いて、安直すぎる自分自身に、溜息ばかりが零れ落ちる。

 

 例えば、首吊りを選択した場合、ほんの数十秒で人生が終わるらしい。そう考えると、馬鹿馬鹿しくなって笑えてくるよな。縊死(笑)みたいな感じ。我々がショート動画を見ているほんの数十秒で、だれかの人生が終了している。画面を下から上にスワイプして次の動画を表示する。そして、次の数十秒でまた他のだれかが終わる。命って、そんなものだったかしら? わたしたちの、懸命とは、その程度のものだったのかしら? 馬鹿馬鹿しいとはわかっていても、そこに馬と鹿が共存していることは理解していても、どうしても、わたしはそのことを悲しく思うのです。

 

 いつまでも、いつまでも、いなくなることへの選択肢が消えなくて、寧ろ色濃くなってゆくばかりで。ふと、夕暮れ時に自分を重ねてしまうことがあります。このまま沈んで、だれからも、見えなくなってしまう。「陽はまた昇る」という部分だけがごっそり削ぎ落されていて、もう、だれにも会えないんだと、一種の安堵が脳を包み込む。一体、わたしはどうしたいのだろう。いても、いなくても、本当に、これはもう間違いなく本当に、どうでもいい存在なのだ。自己肯定感の高い低いとか、そういう次元ではなく、立証とかそういうのを飛び越えて、頭の中に咲いている、一輪の花としての答えなのであった。

 

「”こういう日もあるよね”と思える日が訪れることが、何よりも恐ろしいと感じてしまう」