[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0297 歯車入門

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「日々の中に希望が見いだせない人、いつまでも苦しんでいる人、不安に押しつぶされそうな人。様々な痛苦が渦巻いている世の中で、一体なにを目的として生きていけばいいのでしょうか。愛そうとしないから、だれからも愛されない。愛されていても、その愛に気付けないまま、ただ時間だけが過ぎていく。そんな日常と呼ぶにも愚かしい毎日の中を、どのような面持ちで歩いていけばいいのでしょうか」

 

 いつまでたっても希死念慮は消えなくて、向き合おうと、逃げようと、それは変わらずそこに居座り続ける。大丈夫そうに見えて、全然大丈夫じゃない人。大丈夫じゃなさそうに見えて、やはり本当に大丈夫ではない人。大丈夫大丈夫、って自分に言い聞かせてる時点で、それはもうある程度大丈夫ではなくて、少し壊れていて、彼には緩やかな眠りが必要だった。

 

 苦しいと言えばもっと苦しくなり、楽しいと言えばすこしだけ苦しくなる。笑え、笑顔になれば、楽観が追いかけてきてくれる? なにをしてもダメだ、なにをしても善良だけがかけ離れていく。

 

「『死にたい』と言葉にする人は、置かれた現状にとても苦しんでいて、その堪えきれないほどの苦しみから解放されたいが為に、死を望むようになる。苦しくなければ”死=解放”の必要性がないから、無意識に生きることを選択し続ける。だから”死にたい人”というのは同時に”生きたい人”でもある」

 

 概ねこのような説を見かけた。なるほど確かに、と思う点はあれども、とんだ暴論だとも思う。死が解放に結びつくのならば、我々はずっと縛られ続けながら、日々の中を生きているのだろうか? 生きながらにして解放される方法が無ければ、その救いのなさこそが、生の実態を表しているのでしょうか?

 

 目の前に死を願う者が現れた時、自分には止められないだろうと思った。全ての人間が隠し持つ圧倒的衝動。例えば、「死にたい」と言われてもわたしは話しを聞くことしか出来ないだろうし、いざ実行するとなっても、その行為自体を止めることは不可能なように思えた。結局のところ本人次第で、あなたも、わたしも、己しか制御できないのだ。最早こうなっては、自分のことすら制御が難しく、冷たくて、愛しくて、悲しい。