[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0304 憩いの場もやがて消える

 

 どうしてもスコッチが飲みたくて、BARにきた。ついでに文章でも書いとこうかな。バーテンダーと話さない為の言い訳で身を固める。本当はボーッと天井とか眺めていたいんだけど、そういうことしてると手持ち無沙汰なのだと思われて、気を利かせたバーテンダーが優しい話題を振ってくれる。なんか今は、そういうのがただただ申し訳なく思う。なんの意味もなく、いまは一人の時間に閉じこもっていたいのだった。

 

 大好きなアードベッグが喉を通る。思っていたほどには刺激が無くて、少しだけ悲しい。友人と話し合う恐らく金持ちであろう中年男性、バーテンダーと親しげに話す常連客、そしてただ黙々とフリック入力を繰り広げるわたし。周囲がワイワイ話している中で、自分だけが口を閉ざしているこの感じを、わたしはとても愛している。バーテンダーと話すのは、二人きりの時だけでいい。だからわたしは、オープン直後のBARに行くのが好きなのです。時間を経て、人が増えてきたら閉口する。こういう時にスマートフォンは便利だなと思う。この薄い板さえあれば文章が書ける。それだけで、寂しさや虚しさなど何処か遠くへ消えてしまうから。

 

 BARに行く理由は、お酒と孤独を存分に味わう為である。その場で知り合う人たちは皆圧倒的に他人で、仲良く話していても、大体は"その場"限りの関係性である。アルコールの力、飲みの場の力は偉大だと感じる。割合どうでもいいんですよね、その場にいる、自分以外の誰も彼もが。

 

 そういえば、随分と年の暮れに近づいた気がするのだけれど、その前にクリスマスとやらが待ち構えていますね。何も予定がないと言えば面白さは生まれず、大切な人と過ごしますと言っても、それはそれで面白味がない。最近思うのだけれど、どうせ生きてるんだったら、面白いことしてぶっ壊れたいよなぁ。これはお金の使い方にも通ずると思っていて、しょうもない娯楽にお金を費やすぐらいなら、誰がどう見てもぶっ飛んでることにお金を使いたいなって。そう思うんですよね。こういうのって馬鹿げてるのだろうか。もう欲しいものとか全然なくて、なにも欲しいと思わなくて、せめてもの憩いとしてお酒を飲めればそれでよい。自分のお金を使って誰かが面白がってくれるのなら、それって最高じゃないですか? その面白味を共有できれば、それはとてもいいお金の使い方なのだと思うのです。そうやって、ヘラヘラ笑いながら過ごしていたい。

 

 ふと、「微笑を浮かべながら生活を送りたい」ということを思いました。ムスッとしている無愛想よりも、何故かわからないけどずっと微笑んでいる人の方が、少し不気味なように感じるのです。思うに、わたしは他人から気味悪がられたいのかもしれない。その方が、強烈として印象に刻まれるから。無愛想って、誰でも簡単に出来るのです。微笑って、継続して形作るのはとても難しい。「なにを考えてるのか本当にわからない」って言われることがあるのだけれど、その言葉が本当に嬉しい。微笑はその見解に等しいと自分は考えていて、意図は違ったとしても、少しでも微笑に近づけた気がして心が踊ってしまう。

 

 さて、オン・ザ・ロックも4杯目となり、随分と酔いが回ってきた。明日は休みなので、ぶっ壊れてしまっても構わない。これだから休日前夜は浮かれていて、その勢いで休日を無いものとして消費する。こういう酩酊の中で思うのだけれど、自分は自分の為に生きることが苦手なのだった。"だれか"が存在しているからこそ自分は"私"として生きていて、自分だけが幸せになるとか、嬉しくなるとか、そういうものには、いつまでも興味をそそられないままだ。

 

 多分、明日はなかったことになっていて、絶望している未来の自分がいるのだろう。そうわかっていても止められないのが酒で、コミュニケーションで、どう考えても合理的ではないのに、わたしは私を眺めることしか出来ないのだった。さようなら、きょうの自分。また明日、今日の自分。