[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0367 色めいて艶やかに

 どうにもならずに、飲んでおる。昼間から独り酒、何とも言えず堪えがたい。べつになにがあったという訳でもなく、やっとあたまの中が片付いてきたから祝い酒。昨日は親しい人と飲んだ、今日はひとりぼっち落差が激しい。酒、ひとりで飲むたびに一体自分はなにをやってるんだろうと思うよ。それならばやめとけばいいのにね、習慣と中毒に犯されて候。思い返せば、昨年はたくさんの人と酒を飲んだ。人生のなかで最も酒で失敗した一年でした。とんでもなく苦しかったけど、それでもやっぱり充実していたよなぁと思う。どんな会話をしていたのか、記憶が曖昧な部分もあるけれど、曖昧ながらも煌びやかな記憶と思い出が美しい。今年はまだ始まったばかりだと思っていたら既に一か月が死んでいて、生きた時間、全然過ごせていないのだった。人生を殺めながら今日を生きておる。

 

 色っぽいひとって、素敵ですよね。たまにお目にかかる色気と香り立ち。時々、こうやってお酒を飲みながら色気の正体を考えるんだけど、どうにもこうにも上手くまとまらない。ナイスバディのことかしら、教養があることかしら、性別の魅力を振りかざすことかしら、ゆっくり立ち振る舞うことかしら、いい香りのことかしら、低いトーンで話すことかしら、限定的な露出かしら、清潔な衣装のことかしら、溢れ出る性欲かしら、タバコを吸う仕草かしら、疲労と諦めのことなのかしら。世論としては色気がある程度定型化されているかもしれないけど、それはあくまで多数派の意見であって、実際に色気を感知すること、生きている中であんまりありゃあせん。だからこそ出会ったときには「おぉ......」と感動してしまう。なんとも美しい生き物、話しかけることがおこがましいのである。思うに、色気とは一種の狂気を含んでいるのではないか。同じ「ヒト科」の生物として、恐ろしいと感じている自分がいる。美しいものは、見た者に鋭利な恐怖を与えてしまうのだ。

 

 誰でも簡単に触れられるもの、親しまれるものに色気は発生しない。ミッキーマウスに色気は感じないし、ハローキティからも色香は漂わない。親しみやすい=キャラクター的存在はどうにもポップで(そこが良い部分なのだけれど)色っぽさとは対を成している。これは人間でも同じである。マジかごめんなさい勘弁して下さい、そう感じるほどの色っぽさを醸し出すお方は、どこか孤独な感じがする。これは圧倒的に個人の感想である。でも、やはりどこかほんのり寂しそうなのだ。目を離すとどこかに消えてしまいそうな、でも、柔らかくて一本芯が通っている生き様。他人に迎合しない生き方が、言葉なくとも色香として存在感を放っている。それがその人特有のスタイルとなっていて、ちょっとばかりナチュラルな威圧感。触れてはいけない、でも触れてみたい。他人を感動させる不思議な魅力が、ただ静かに存在している。

 

 ここまで書いたことは、すべてわたし個人の意見に過ぎません。勿論、異論は認めます。年齢性別問わず、あらゆる方に「色気ってなんだと思いますか?」と聞くことが趣味になっている。瞬時に答えが返ってくること、ほとんどない。やはり本能的、感覚的に察知していて、それを言語化するにはある程度の時間が必要みたい。ゆっくり考えていただいて、最終的に「これ」というものが返ってくるんだけど、本当にそれが多種多様で面白いのだった。ある人は「動作がゆっくりな人」、ある人は「わたしは声フェチだから低い声」、ある人は「間違いなく高身長」、ある人は「香り」、またある人は「ボンキュッボン」。そして、どうしてそう思うのか、深く掘り下げるとまた違った味わいがあり楽しくなる。その人がどういう人なのか少しだけ明らかになるというか、人間関係においてどの部分を重要視しているのかがわかることもある。こういうの書いてるだけで、楽しい。色んな人に質問して、たくさんの定義を入手したからといって、意識的にそれを実行することはないけれど、やっぱり自分が思うのは、「色気」に関して考えている時間が大好きなのだった。

 

「それじゃあお前が思う色気ってなんやねん」ということですね。わたしの現時点での回答は、色気とは即ち「姿勢」から発出しているものではないかと思うんです。これは表面的にも、内面的にも同義です。ピンと伸びきった背筋は見ていて心地よく、物事に取り組む姿勢=意志が定まっている人はとても美しい。そして、両面の姿勢が整っている人からは、一種の狂気を感じるのです。関わってはいけないような気がする、ちょっと怖いなと感じるものがある。その狂気の一面に色香が立ち込めるのだとわたしは考えています。

 

 わたしはうまれてこの方、背骨が曲がり切った猫背人生を送っていました。そして世に普及したスマートフォンによって、ストレートネックが完成された。過去のわたしはそれが現代の流れであり、その姿がカッコイイとまで思っていました。本当に愚かですね。ある時期からフォーマルな服装に興味が湧き、それを実際に身に纏い、これで猫背は様にならないだろうと直感しました。「猫背は治る!」という本に出会い、そこに書かれてあることを毎日実践、苦しいながらもただひたすら繰り返す内に、数か月経った頃には猫背を脱却していました。これは本当に自慢なのですが(笑)、今となっては姿勢を褒めていただけることが多くなりました。職場の同僚はある時期から腰痛が発生してどうしようもなくなり、その原因が「姿勢の悪さ」から発生していたものと知り、「どうやって座ればいいの?」と聞かれたのでアドバイスさせていただいたところ、一ヶ月も経った頃には腰痛が消失していた。わたしはその痛みを感じることは出来ないけれど、今でも背筋が伸びた彼女のことを美しく思います。それでもやっぱり現代人、デスクワーク、スマホの使用が多くなり、気を抜くと姿勢がぞんざいになってしまう。わたしも机に向かい文章を書いている時は、なんとも情けない姿勢になっていることが多々あります。そして、それはお酒を飲んだ時も同様です。アルコールが体内に流れこむと、姿勢を保つことが難しくなる。どうしても何かにもたれなくなってしまうのです。もしかすると、もたれかかりたいからお酒を飲んでしまうのかもしれないなぁ。これは特に個人的な感覚なのですが、表面的な姿勢が崩れると、内的な姿勢もおざなりになってしまう。自分が本当に取り組みたいことに対して、「明日からでいっか」となってしまうのだね。背筋が伸びていないと、自分を律する事、集中することが難しいのです。

 

 なんだか随分脱線してしまったけど、結局なにが言いたいのかというと「色気って大事だよね」ってこと。これは旧友とよく口にしていたことです。自分が信じる色気を身に纏うために、日々邁進するのも悪くないのかもしれない。その先になにがあるのかはわからないけど、わたしは魅力的な人、色っぽい人が好きなんです。そして、大嫌いだった自分のこと、自分自身のこと、少しずつ好きになれてきてるから、もっと自分のこと愛せるように、日々姿勢を正すことをここに誓います。これは酔った勢いではない、ストロングゼロの涙などでは決してない。私がわたしとして、自分が自分らしく在るために、身勝手に行う決意表明なのです。

 

 

「皆さんの色気の定義、今度会ったとき教えて下さいね」