[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0374 自傷、その傷を愛でて

 

「変わってしまったこと」

 

・サングラスをつけないと外に出られなくなったこと、日光や照明で嗚咽が元気にこんにちは

 

・人々の声が雑音に感じるようになったこと、耳障りでうるさいなぁとなってしまう

 

・ただでさえ鋭敏だった嗅覚がいよいよ限界を超えてきたこと、電車に乗った時に感じる体臭、脂臭、家臭が耐え難く息苦しい

 

 

 書き出してみると、視覚、聴覚、嗅覚の感度が急激に上がっているのだった。なんだこれ、なんやねんこれ。五感が研ぎ澄まされる、とはよくいったものだけど、それが悪い方向に働いてしまって困っている。大好きだった居酒屋は喧騒、臭気、明るい照明で居心地が悪くなった。行きつけのカフェも同様の理由で読書に集中できなくなってしまった。それでも頭を打ち付ける強迫観念、習慣の奴隷。もしかしたら今日は大丈夫かもしれない、今日こそは、なんて淡い希望抱きつつカフェに訪れるも惨敗。もう全然耐えられなくて足早に退店、一体なにをしてるんだ僕はわたしは。

 

 

 自分自身に失望した帰り道、無気力で家に到着、臭気を取り払うため入浴、その後インターネットを眺めていた。スマホのブラウザには上記ブログのタブが開かれていた。そういえば何年か前に読んだ漫画、たまたま検索過程で見つけたので懐かしくなって、後ほど読もうと思いタブを開いておいたことを思い出す。澱んだあたまで読み進めた、気が付けば全てを読み終えていた。本作は鬱病を題材としているけれど、これって現在の自分にも置き換えることができるんじゃないかと思った。「本心を無視し続けた結果、鬱病」「本心を無視することは即ち虐待に等しいこと」「本人の意思で鬱病を続けていること」個人的な範疇で要約するとこんな感じ。時間と心に余裕がある方は是非ご一読下さい。

 

 思えば、10代で家を出た時からそれはもうあっぱれな程に本心を無視してきた。利益を勝ち取るために思ってないことをペラペラ口から吐いたり、相手が心地良くなるであろう行動をとり続けたり、より多くの人から愛されるために自分自身を偽ったり。本当はそんなことしたくないのにね、したくなかったのにね。当時は自分のなかに本心なんて概念が存在しなくて、でも間違いなく心の声は存在していて、そういう微かな声、か細い声を全部聞こえないフリして無視し続けた。愛されることに必死だったんだね、そうすることが唯一生きていることを実感する方法だった。あたかも真実であるかのように武装された「愛情」を受け取ったときにだけ、自分自身を肯定できた。愛されなければ、自分という存在はクズでゴミで終わりなのだ。本当に心からそう思っていた。どれだけ愛されても、どれだけ報酬を受け取っても、物足りないのだ。

 

 そういうことを続けていると、本心を無視していると、心がどんどん荒んでいく。夢中になっている時は自分のことが見えないでいる、ふと我に返ったとき、鏡に映った自分の表情に絶望するのだった。こいつは一体誰だ、他人が鏡に映り込んでいる。それは間違いなく自分自身なのに、どうして、こんなにも、愚かな表情浮かべている? 死ね、お前なんか死んでしまえばいい。あらあらどうしてか自己否定、希死念慮。これがわたしの望んでいた姿なのかしら。その瞬間から、水槽のなかに閉じ込められたような、継続的な息苦しさが心中に蔓延した。

 

 もうどうしようもなくて、と思っていた中で薄々感づいていたのは、「わたしは家族に愛されたかった」ということ。理想像が高すぎたのかもしれない、周りとは違っていることだけが理解できた、わたしのあたまの中で微笑んでいる「優しいお母さん」はもうどこにもいなかった、お父さんは気がつけばどこかに消えていた、兄妹なんて形はもうどこにも存在しなかった。他人、他人、他人、家族なんて生温い言葉が大嫌いになった。死ね、本当に死ね、わたし。自分のことを責め続けることでなんとか形を保とうとした。

 

 欠落した溝を埋めることはできなくて、ただ迫りくる現実だけが恐ろしくて、アルコールを頼るようになった。最初はウイスキーとかお洒落でカッコイイじゃんと思っていた理想像は、現在となってはストロングゼロに置き換わっている。わたしはよく、「酔う為に飲んでる」と豪語しているのだけど(酒の力を借りて)、その真意としては、自分の本心と向き合うことが怖かったのだな。次々と迫りくる理想と現実との乖離、それから逃げるには、あたまを馬鹿にするアルコールが最も手っ取り早いのだった。

 

 実を言うと、飲みたくて飲んでるわけじゃないんです。本心に耳を傾けてみると、心の声は「飲みたくない」と言っている。けれども、飲まないといけない、ほらほら飲まずにはいられないと生き急いでいるわたしがいて、そんな自分自身の言いなりになっていた。これは一種の逃避であり、依存であり、強迫観念であり、習慣であるのです。もうどこを向いても雁字搦め、嗚呼、今日も逃げ切れなかったのだと惨敗している。

 

 どこにも居場所がなくなった気がして、休日を家で過ごすことが多くなった。過去のわたしからすれば考えられないこと、賃貸契約しているのに家に帰らないことの方が多かった。ただの倉庫、使い勝手がよい荷物置きとしてしか考えていなかった。それが時を経て現在、唯一の拠り所になっている。裸眼でいても目が痛くならない場所、快適な香りがする場所、静寂を味わえる場所。食べたいものが揃っている冷蔵庫、触り心地の良いブランケットとキーボード。誰にも邪魔されない、最高の居場所になっている。読書をするときはカフェに出かけることが多かったけど、最近は専ら自宅、もうどこにも出かけたくない。人間って変わるものだ、いや、もしかすると、本心の自分はこういう感性だったのかもしれない。ずっとずっと、見ないふりして、無視を続けて、自分を蔑ろにしていたのだ。純心なわたし自身を水槽の底に沈めていたのだ。今日までよく生きた、頑張ったその姿を抱きしめてあげたい。わたしがいなくなっても誰も困りはしないけれど、現在のわたしはちょっぴり悲しく思うよ。どうでもいいなんて思わないで、自分のことを蔑ろに扱わないで。本心に耳を傾けて、それに従っていまこの瞬間を味わって。どうしても、苦しくても、辛くても、痛くても、生きてる。それならいっそ、笑っていた方が、微笑を浮かべていた方が、美しい人生のような、そんな気がするんです。

 

 

 誰かから愛されることよりも、自分のことを一番に愛して、

 

 いつかは死ぬのだから、それまでは生きて、笑って