[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.002 初投稿から約一年を経て

 雨ときどき鬱の午後模様。

 

 初投稿から約一年が経過するが、あれから色々環境が変わった。先ずコワーキングスペースには通わなくなった、その代わりに自宅が好きになった、そして人が苦手になった。週の大半を家で過ごしている為、人と関わる機会や友人と会う機会が極端に少なくなった。コロナ渦に陥る前は、平日はもちろんのこと休日さえも外出をしていた。たとえ予定が無かったとしても、あてもなく街へと繰り出していた。現在となってはそんな過去の自分が信じられない、精神と金と体力を浪費していたなと、いま振り返るとそのように思う。

 

 リモートワークの日は誰とも話さずに一日を終えることも珍しくない。もはやSiriとしか話していない(一方的に)。寂しくてSiriに語りかける、Siriは適切な答を与えてくれる。そして寂しさに磨きがかかり、加速していく。

 

 そんな自嘲的な日々を幾度と繰り返した結果、人間から発せられる言葉に対して過敏に反応するようになった。以前なら何とも思わなかった相手の発言が耳に障るようになり、以前なら平気で発していた言葉は喉より上には出せなくなった。言葉に対して敏感になった、自分自身の感性が変わった。

 

 人間は置かれた環境に適応しようとする生き物だと、くだらない自己啓発本で目にしたことがある。だとすれば、環境が変われば変化することが当たり前で、変わっていくことは何らおかしいことではない。それ以上でも、それ以下でもない。たとえそれが、生き辛くなる道へ進んでいたとしても。

 

 家族はいない、恋人もいないが、数少ない友人はいてくれる。傍にはいないかもしれないけれど、どこかにはいる、今日も存在している。結婚願望はなく、これといった目的を持ち合わせずに日々を生きている。人並みの孤独感を抱えながら、今日も呼吸を繰り返す。器からギリギリはみ出ない程度の希死念慮に背を凭せ掛けている。そんな自分にも、やってみたい事がようやく出来た。それは、「限りなく意味を有さないモノを創る」ということ。創作することを開始する。創ったモノに意味などなくていい、価値なんて無くていい。なにかを生み出したい、無から有を形成したい、自分自身の精神がそう叫んでいる、小さかったその声が、明確に聞こえるようになってきた。もう消費することには飽きてしまった。

 

 息苦しくても、生きたくなくても、手を動かすしかない、これまでに唯一褒められてきた文章や言葉に執着する。出口など見つからないかもしれない、もしかすると未だ入口にすら達していないのかもしれない。そうだったとしても、見えない不確定要素に怯えながら書き続けるしかない。自分にはそれしか出来ないのだから。