[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.003 影の効用

 

 ずっと明るい場所が苦手だった。これまでも、きっとこれからも。

 

 基本的に白熱電球が嫌いだ、蛍光灯なんて滅びてしまえばいいと思っている。これは自分の感覚なのだけれど、カフェやBarなどの飲食店を除いて、一般的な商業施設は明るめの照明を採用していることが多い気がする。例外無く地獄空間を演出してるのは家電量販店で、一般企業のオフィスには蛍光灯が使用されていることがほとんどらしい。

 

 蛍光灯の下で作業をすることが苦しい。なぜそこまで明るさにこだわるのか、こだわっていないからこその明るさなのか。降り注ぐ白い光が網膜を焼き尽くし、眼精疲労を形成する。明るい照明は、なぜか気持ちが乱れてしまう。明度の暴力に曝されている、目薬では対応が追いつかないのだ。

 

 スマホやPCのスクリーンから発せられるブルーライトも苦手だ。眼球を待ち針で幾度となく突かれるような感覚に陥る。そう言いながら、いまもPCで文章を書いている訳だけれども。しかし、デジタルデバイスは大好きだ。自分にとっては家族のようなものだ。けれども、自分の眼球が家族たちを受け入れようとしない。好きと苦手の矛盾、好きの一面と苦手の一面、あらゆる物が含有している当たり前の一面、その矛盾を、人は愛し続けるのかもしれない。自分の場合、デジタル機器は使用時間を制限することによって、良好関係を築いている。近すぎても、遠すぎてもいけない、好きな人やモノとの距離感については別記事にて言及したい所存です。

 

 自宅は出来る限り照明を落としている。もはや明かりを灯すこともしたくないが、夜は毎日訪れるので、読書できる程度の優しい電球色を灯している。目が焼かれない快適空間。自宅へ遊びに来た友人からは室内が暗いことを指摘される。「こんなにも暗くしてるから、思考も暗くなるんだよ」と言われたことさえある。確かにそれは一理あるのかもしれない思い、調べてみた結果は”人工的な光が嫌い、ネガティブ、人間関係に疲れている、じっくり考え事がしたい、ストレスが溜まっている、根暗、消極的、”等のネガティブワードばかりが列をなした。しかし、部屋を明るくしただけでそれらが解消されるとは思わない、寧ろさらに悪化するのではないだろうか。室内が暗いからネガティブになるのか、ネガティブだから室内の暗さを好むのか、鶏が先か、卵が先か、最初から答えなど存在していない。

 

 ”暗い=ネガティブ”、という世間が完成させた方式に納得がいかない。明るさの押し売り、圧力的な明度が私たちの居場所を侵害している。明るく元気な子に育ってほしいと世間の親たちは口を揃える。その期待に子供たちは応えようとする。そして自分自身を自傷的に削ってゆく。光があるから影が出来る、光が無ければ影はその身を維持することが出来ない。影であるということは、どこかに一寸でも光を有しているということだ。ただ暗いだけなんてことはない、どこかに明るさは必ずある。明るいだけの人間なんてつまらない、明るいだけでは、物語は生まれない。

 

 それなら私は影になりたい。影で在り続けたいと、そう思いながら生きています。