[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0286 アンチ・アンチ・コミュニケーション

 

iiinukaiii.hatenablog.com

 最近、コミュニケーションへの関心が高まっていて、そういえば以前にも書いた気がしたので見返してみると、約一年前にもコミュニケーションに関しての文章を書いていた。冬が到来して、一年の終わりがなんとなく垣間見えるような、この時期になると自分はコミュニケーションを意識するようになるのかもしれない。

 

 放っておいても日が暮れるのと同様に、人間は必要なタイミングで他者を求める。つい最近までは正しく”アンチ・コミュニケーション”に陥っていて、割と存在するほとんどの人間を疎ましく感じていた。もう本当に、ただひっそりと静かに過ごしていたかった。不必要に騒ぎ立てないでほしい、うるさい。

 

 そんな自分だったが、夏の終わりごろから他者との交流が楽しいと感じるようになった。確かにキッカケみたいなものがあったハズなのだけれど、それが何かも思い出せないような些細なことで、結局のところ、精神の安定感次第な部分は多いにあるのだと思う。少し前にも書いたけど、最近は本当に本当に信じられないほどに心が安定しているのだ。現在の状態に対して、なんとなく”抜群”という言葉が頭に浮かぶ。それほどに調子がいいからこそ、他者と関わりたい欲求が勢いを増しているのだろうか。

 

 ここで調子に乗ってしまえば、未来ではまた人嫌いになっていることだろう。死にたいとばかり呟く自動人形に逆戻り、苦しみへの舞い戻り。そんなことは本当に勘弁してほしいから、昂る気持ちを抑えて自制を試みる。毎日でも他人と交流していたいけれど、しっかりと一人の時間も確保する。望むものばかりを受け取っていると、脳の報酬系が馬鹿になる。そうしてもっと多く、もっともっと多くの欲望を追い求める。麻薬も、承認欲も、他の魅力的な物も、原理としては似たようなもの。だからこそ、ほどよく自制して、解放した時に恩恵を存分に享受できる様な、そんな仕組みと生き方が自分にとっての理想なのです。

 

 現在の自分は一人暮らしだからこそ、コミュニケーションに対して想いを巡らせてしまうのだろうか。例えば、家族と一緒に住んでいたり、恋人や友人と住居をシェアしていたりすると、こんなこと考えなくなるのだろうか。日常の中に、現在よりも多くのコミュニケーションが組み込まれていることを夢想してみると、何だか不思議な気持ちになる。そうなった時に、自分は自分の形を保てるのだろうか。人間は、環境に適応する生き物だ。いざ、その状況に身を置いてしまえば、それなりに平気で生きていくのだろうなと思う。けれど、けれども、帰宅しても尚コミュニケーションに意識を注ぎ続ける日常が、その他関係性の希薄と結びついている気がしてならない。自分の場合は、その他関係性との密度を深めたいと考えているため、まだ誰かと一緒に暮らす段階では無い。そして、本当に世の中は仮面だらけだ。家で一人になれなければ、一体いつその仮面を外せばいいのだろう? これはわたしの恒常性で、凝り固まった偏屈な思索。

 

 

 週に一度か二度は、誰かと会ってゆっくりと話しがしたい。それ以外の時間は、交流の気持ちを抑制しつつ、自分が取り組みたいことを追求する。理想はあくまで理想だけれど、理想を理想のままで終わらせないために、現在の行動を繋いでいくしかない。これから、旧友に会いに行く。”今日は死ぬまで飲む”という名目で、終電まで飲み続ける。一人で終電を見送って、あてもなく夜の街を彷徨っていることだろう。旧友とどんなことを話そうかと考えている時、見知らぬ人間しかいない見知らぬ街でなにをしようかなと考えている時。数時間後にはそのすべてが終わっていて、一人になった後はきっと虚しさがこみ上げている。それでいい、それでよかった。独りの夜が、一人の時間があるからこそ、誰かと一緒にいる時、お話しをしている時に、わたしは幸せだと感じられるのだから。