[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0333 決断力の整え方

 

 自問自答を続けるなかで痛いほど感じるのが、「自分で決める力」が本当に大事だということ。

 

 社会のなかに身を置いていると、自分で決められないことがたくさんある。例えば、「何時から何時まで働く」「特手の場所で働く」「スーツを着用する」などなど。しなければならないことと同じくらい、してはいけないこともあって、「髪の長さや色の規定」「装飾品禁止」そういう規則は全部他人が決めている。時間内に終われば早く帰ればいいのに、会社でなくても働けるのに、私服でも派手髪でも何ら問題ないのに、予め決められた規則に従って、何となくそれらを受け入れている。起業したりフリーランスになればある程度問題は解決するだろうけど、それはそれでまた別の問題が発生する。決して会社勤めが悪いと言いたいわけではなくて、自分で決められる箇所が狭まっているからこそ、それ以外の選択は、しっかり自分の意思を反映させていきたい。

 

 ゆるゆると世間に流されてしまうと、「自分で決める行為」ができなくなっていく。わたし個人の考えとして、インターネットの影響で人間が本来持っているはずの「考える力」が衰えていくと思っている。困ったこと、Googleに聞けば即座に答えが返ってくる。なにかある度に検索窓にワードを打ち込み、解決する。欲しいものができた時、とりあえず商品ページのレビューを参考にする。気になる飲食店も食べログのレビュー数で判断する。何度も言うけど、これが悪いことではない。けれど、こういうことを繰り返していると、自分で思ったこと感じたことが、どんどん薄れて消えてしまう気がするのです。人間の筋肉は使わないと衰えていく、これと同じで自分で考えることをしなくなると、もっともっと考えられなくなっていく。上手く考えられないから、決められない。最終的に、いかなることにおいても、自分で決めることが出来なくなってしまう。

 

「今夜はカレーライスが食べたい」と思ったとき、それは本当にあなたの考えですか? 誰かがカレーを食べていた、カレー屋の前を通った、ドラマの中でカレーを食べているワンシーンがあった。そういった些細なことが起因となって「カレーライスが食べたい」となったのであれば、これって自分の意見のようであって自分の意見ではないと思うの。そこに良悪の判断を下す必要はないんだけど、これってすなわち「食べたいと”思わされている”」状況。素敵な服、アクセサリー、お洒落な家具、「欲しいと思うもの」が実は「欲しいと思わされていたもの」かもしれなくて、これが衝動買いをした数日後に発生する「なんでこんなもん買ったんやろ」という虚無の元凶でもある。商品を知ってもらい、購買意欲をかき立てる=欲しいと思わせるために企業は膨大な広告費を投じている。物欲、食欲、性欲、そのなにもかもが、本当は自分の思いとは異なるものなのかもしれない。

 

 それで経済が回ってるんだからまぁいいんだけど、自分は決断のなかにしっかりと意見を反映させたいと思うのだ。なにかが欲しいと感じたときは「本当に自分はこれが欲しいのか?」と深く自問自答をする。経験として、大抵の場合が勘違いなことが多い。大体がインターネットで見た影響、誰か身近な人の影響、道ですれ違った見知らぬ他人の影響が、ジワジワと頭を侵食して欲求を発生させていました。という場合がほとんであった。行きたい飲食店があればレビュー数に関係なく足を運びたいし、欲しい服があれば試着してみて自分がどう感じるか、家具であれば直接触れてみて心が喜んでいるか、そういう自分の感覚的なものを養っていきたいと考えております。

 

 悩みとかも同じで、いくら一人で考えても埒が明かないとき、ありますよね。そういう時は周りの頼れる人に意見を求めることも大事だけど、結局のところ最後に決めるのは自分自身なんだよな。誰がなにを言っても、決断を下すのはいつだって自分であって、その決断に責任をとるのもこれまた自分なのである。だから決断力がある人というのは、すなわち日常的にその感性を磨いている人でもある。それらを総称すると「ブレない自分軸を持っている」ということになるのだろう。だれが何を言おうと、自分の感性でいまこの瞬間を切りひらいていくしかないんだよな。世間とか、周囲とか、マーケティングとか、様々なものぶっ飛ばして、わたしは自分の五感をフル活用しながら、これからのこと決めていきたい。