[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0390 綺麗な折り鶴

 

 あたまの中がボンッっと爆発、簡単なことをより複雑に考える天才だ。1と1を足せば2になってくれればいいのだけど、いかんせん公式が当てはまらないのが世の常で、答えは3にもなるし、時には10にもなったりするんですよね。可能性がある、ってことは素晴らしいことなのだけれど、もう少しだけわかりやすくなってはくれないものだろうか、人間。

 

 馬鹿になればすべてが楽に感じるのだろう。なにもかもを考えるということは、なにも考えていないことと同義なのである。考えが過ぎると、上手くあたまが回らなくなって、すなわちそれが”馬鹿になる”ということ。突き詰めていけば、行き止まる。それ以上考えてもどうにもならないことに大切な感情を費やしても、やっぱりそれはどうにもこうにもならないのだった。いっそのこと、馬鹿になれ、馬鹿になりたい、思考のほとんどを手放したい。悩みがなさそうに見える「まさかあの人が......」という方が鬱の世界へたどり着いてしまうのは、きっと思い出してしまったんだろうね。深い部分にある痛みを、過去を、これからも続く未来のことを。だれも抱きしめてはくれない現実のことを。馬鹿になることと馬鹿を演じることは全くの別物、大丈夫、そんなあなたを抱きしめてあげたい。手をつないで、安心して、一緒に馬鹿になっちゃおう。

 

 世の中、知らないままでいいことの方がたくさん。でも、知的好奇心から真理を求めて探して考え続けて、そこに浮かび上がった答えが見るに堪えない絶望だったとき。考えることを放棄してしまいたくなる、けれども張り付いたままの絶望に悩まされ、こんなのって自分だけのように思えるけど、人間みんなそんなもので、折り合いに折り合いを重ねて綺麗な折り鶴を完成させることしかできないのだ。クシャクシャな和紙、整えて丁寧に折り目をつければそれは一つの作品になる。それを眺めながら、「結構いい感じ」と思えればそれでよいのであって、それだけが唯一の正解になる。結局、偉い人が提唱した思想、哲学、生き方、日常の細々とした感情、愛、そんなことよりもちゃんと自分のあたまで考えて、時には絶望しながら完結させていくしかないんだよな。その最果てが「馬鹿になる」なのだとすれば、それでいいじゃない。考えることに飽いたときには、笑って踊ればいいじゃないの。それも一つの綺麗な折り鶴、それも一つの美しい生き方。