[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0414 選ばれなかった者たちの

 

 たとえば、人間にそれぞれ価値があったなら、それを数値化する方法ってなんなのだろうか。たとえば、資産額。たとえば、人脈。たとえば、フォロワーの多さ。現実として、お金は切っても切り離せない、人との繋がりはとても大切なんだけど、それらを数字に現した瞬間に魅力が失われる。多ければ多いほうが良い、金も人もフォロワーも何もかも、多いに越したことはない。そういった意見もあるだろう。これらを正論として話しを進めるのならば、持ち金が少なく、家族も友人もほとんどいない、そもそもSNSとかやってないような人間は、価値が少ない、もしくは価値が無いということになってしまうんだろうか。

 

 パン屋に勤める知人と仕事終わりに会った時、「よかったらいくつかもらって」とご厚意でお店のパンをいただいたことがある。袋のなかにはそれはもうたくさんのパン、パン、パンで埋め尽くされていて、「こんなにたくさんどうしたの?」と聞いてみる。「廃棄処分されると可哀想だからね」と静かに一言呟いて笑う。誰にも買ってもらえない、食べてもらえないパンがこんなにもあること。これもその中の一部であって、本当はもっとたくさんの選ばれなかった者たちがいること。廃棄処分、あたまの中をグルグルと渦巻く一言が、なんだか心に痛かった。

 

 人間も同じなのかな。価値がないと判断されたもの、魅力を上手く扱えないひと、最後まで選ばれなかったひと。そんな人たちは世間では無いも同然として扱われ、果てには廃棄されてしまうのだろうか。完全に孤独と心中できる人ならいいけれど、中々そういう訳にはいかないですよね。やっぱり、誰かに認められると嬉しい。選ばれると嬉しいのです。その感情、ある瞬間の嬉しさをずっと覚えているから、現在に不足を感じたりしてしまう。わたしには価値がない、そう思い込んでしまう。日本では健康で文化的な最低限度の生活が保障されているけれど、それらは自己完結の範疇でしかないのではなかろうか。他者はプラスアルファの存在、言うなれば人生の付加価値なんである。選ばれなければ、意味がないのです。ホッカホカの出来たてパン、冷めて固くなったパン、やはり選ばれるのは温もりでしょうか。それでもね、可哀想だからと言って手を差し伸べてくれる人がいる。それは同情なんかではなく、一種の愛だと思うのです。その気持ちこそが温もりだと思うのです。価値がないと思い込んでいるあなただからこそ、感じられる想いがある。この世界に対する尺度がある。わたしはそんな人たちのことが好きです。それでも、嗚呼、どうして、廃棄処分されるわたしの姿が、頭の中で何度も何度も繰り返されている。