[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0329 とても綺麗な並び言葉

 

 いつから自分が綺麗だなんて思い込んでいたんだろう。世界は穢いだなんて決めつけていたんだろう。衛生観念は人によって異なるものだけど、何事も過度になるのはよくないもので、気が付いたときには自分の観念がねじ曲がっていた。

 

 年末年始になって痛感する、それは街にゴミが積もっていくこと。繁華街なんかはその実態が顕著に現れていて、どこを歩いても視界にはゴミが映り込む。品格なき幾人かの人間がお気楽な不法投棄、いわゆるポイ捨てを重ねた結果、街の空気が澱んでいく。一体どういうことなのだろう? どういう精神構造をしていれば、道ばたにゴミを捨てるという発想に至るんだろうか。ゴミ箱という概念を持ち合わせていないのか、地球という惑星をゴミ箱だと勘違いしているのか、ゴミを処分することにもエネルギーやコストが発生することを知らないのか、それを承知の上でポイっと捨てているのか。怒りや呆れを通り越して、わたしは不思議でたまらない。

 

 歩いていると臭ってくる見慣れた液体。吐瀉物もそこかしこに散らばっている。お酒を飲み過ぎる気持ちは、とてもよくわかる。楽しくなっちゃったんだろうね。それでも、吐く時はトイレで、もしくは袋のなかにぶちまけてくれと思ってしまう。誰が吐いたものであっても、吐瀉物は見るに堪えないものがある。ありありとした惨状を、いとも簡単に想像できるんだよな。胸が痛くなる、過去の自分自身がチラつくようで。

 

 そんな訳で、ゴミや吐瀉物が散らばる繫華街。この時期の午前中は晴れていてもすこし薄暗い。いつも何気なく歩いている場所が、どんどん精気を失っていくようで悲しい。こうなってはじめて、清掃員さんの有難みに心臓を握られる。街中でも、オフィスビルでも、マンションでも、そのほとんどに清掃スタッフという枠組みが存在していて、その方たちがいつも快適な空間を提供してくれている。「別に誰かのためじゃない、生活のため、お金のためにやってるんじゃ」と仰る方もいるだろうけど、それでも清掃をしていただいてる事実は変わらない。いつも、本当にありがとうございます。ポイ捨ては世界のどこかしらで日常的に行われているのだろう。その捨てたゴミを他の誰かが拾ってくれているから綺麗な街並みを保てるわけであって、その風景に目が慣れてしまうとよくない。”誰か”が清潔にしてくれている、そんな当たり前なことをわたし達は忘れてしまう。

 

 年末年始は清掃員さんもお休みされているだろうから、ゴミばかりが積もっていくのだな。そもそもだれも道端にゴミを捨てなければ、こんなことにはならないのに。そんなことを思うんだけど、結局他人を変えることなど出来はしないから、ポイ捨てするような人間はその愚かな人間性のまま、ホコリっぽく一生を終えればいい。わたしの住まいの周辺にも、幾つかのゴミ、たばこの吸い殻などが落ちていた。うん、この物件も定期的に掃除していただいているのだ。本当に有難いことだ、と思った。そういうこと考えているとなんとなく身体がムズムズしてきて、気が付けばビニール手袋を装着して、家から飛び出していた。自主的に落ちているゴミを拾うとか、一体何年振りだろう。もしかすると小学生のとき以来かもしれない...... なんて細やかなドキドキが頭のなかを駆け巡りながら、僅か数分足らずのゴミ拾いは終了した。

 

 身体中が汚れた感覚がある。これは強迫観念であり、紛れもない錯覚である。そもそも自分が綺麗だと、清潔に違いないと信じるようになったのはいつからだろう? 信じられなくなったのはいつからだろう? これは極めて個人的な概念の話しで、ちょっとうるさい小言だと思って聞いて下さい。例えば、この世界そのものが汚れているとする。それは物理的・精神的、どちらの意味合いでも。そのなかで暮らすわたしが、いかなる手段を用いても「完全な清潔」を手にすることは不可能だ。前提として、世界が汚れている。そのなかで暮らすわたし自身も、同程度には汚れている。だからこそ、人間は清潔であることを願う。そして、不可能なことを完璧に求めようとするから苦しいのであって、欲求をほどほどに抑えれば、自他共に楽観的になれるんじゃないだろうか。ゴミが落ちていたら拾う、汚れている部分があれば拭き取る、日常会話ではなるべく綺麗な言葉を使用する。そんな感じで日々を過ごせたなら、世界はもうすこしだけ穏やかになれるのかもしれない。

 

 そんな世の中だからこそ、あらゆる類の「綺麗」が際立っている。ひと、もの、ばしょ、綺麗なだけで一目置かれる。人間は皆、綺麗なものが好きだ。それを意識しているかしていないかの違いで、清潔に目を惹かれるのは当然だ。だけど、理想論ばかり掲げていては、世界の色が濁ってしまう。ほんの少しだけ世界に花を添えること、彩りを与えることを、一人の人間が意識できたのなら、心の病も浄化されるのかな。わたしたちは己の欲望から芽を摘むことばかりを考えているけど、もう少しだけ周囲を思いやることができたのなら、泣かないままでいられたのかな。